「大郵便道路(61)」(2025年03月12日)

かれはダンデルスに抗議するために敢えてその反抗的な姿勢を示した。最高権力者と刺し
違えてでも、弱小領民を死に向けて追い立てるような非人道的暴虐を自分の生命に代えて
もやめさせる気構えを示して見せたというのがこのチャダスパゲランの物語なのである。

ヌサンタラの支配者になった異民族の最高統治者を怖れず、ご無理ごもっともという奴隷
根性を抱かず、領民の幸福を思う領主が示したヒロイックな姿勢に領民たちは心の中で快
哉を叫んだ。この美談が地元で語り継がれた結果、インドネシア国民が自主独立の気概を
失わないようにするための社会記憶のひとつとしてインドネシアが独立したあとにこの話
が喧伝され、チャダスパゲラン地区の入口にそのできごとを記念する像が建てられた。


おまけに大郵便道路建設工事が1万2千人の人身御供をむさぼったというイギリス人の調
査数字がインドネシア共和国正史の定説になっていて、チャダスパゲランでの死亡者5千
人はたいへん大きいウエイトを占めるために、チャダスパゲラン事件がダンデルスの行っ
たインドネシア民族に対する暴虐を示すできごとの筆頭とされて、悪逆非道のダンデルス
という人間像がインドネシアの正史の中に刻み込まれることになった。

いや、ダンデルスが冤罪をかぶせられているようだから、かれの無罪清廉潔白を論証しよ
うとしてわたしがこれを書いているということでは決してないのだ。インドネシアで大悪
人のラベルを貼られているダンデルスの悪行を並べていくと、いろいろとつじつまのピッ
タリしないポイントが見つかるのは既にお読みいただいている通りなのである。社会が与
える人間の毀誉褒貶の根拠の合理性や客観性というものの本質を覗いて見るのも一興とい
うのがわたしの企てなのだから、わたしがダンデルスを弁護しようとしているなどという
憶測はご無用に願いたい。

で、ダンデルスとパゲランコルネルの対面はどんな結果を生んだのか?そのときダンデル
ス少しも怒らず、ブパティの抗議を聞き入れた総督は、軍の工兵隊にそこの工事の仕上げ
をさせようとブパティに約束したということがイ_ア語解説の中に書かれている。


ところがインドネシア人の中にも、このチャダスパゲランの話は史的事実ではないのでは
ないかという疑問を呈しているひとびとがいる。チャダスパゲラン伝説論のひとつは、総
督である自分の指示した政策に反対する者を許さない行動をダンデルスがジャワ島で示し
たことを根拠に挙げている。バンテンの王家を廃絶してバンテン王宮を粉々に破壊した事
実、ダンデルスの命令に服従しなかったためにジャワ島王国領の王が三人も王位から落と
された事実などがそこに示されている実例だ。

もしもダンデルスがその解説ストーリーのようなことを本当に命じたのであれば、かれの
性格から見て、そんな生易しい結末に至るとは考えにくいというのがこの立論者のポイン
トのようだ。

おまけにチャダスパゲラン記念碑に記されている説明文には、その道路工事は1811年
11月26日から1812年3月12日まで行われたと書かれており、ダンデルスがグル
シッから船に乗って東インドを去ったのが1811年6月29日であるため、パゲラン 
クスマディナタ9世がその場所でダンデルスと対面することは起こり得ないという結論が
導かれる。

インドネシアの歴史学界も、インドネシア国内で見つかっているババッやワワチャンなど
1808年に近い時期に書かれた一次資料の中にチャダスパゲランに関する記載はひとつ
も見つかっていないことを明らかにしている。チャダスパゲランの話が見られるのは18
70年代以降に書かれたババッスムダンやワワチャンパゲランメカなどでしかない。

また、オランダ人歴史学者フレデリック・デ ハアン博士の書いたオランダ統治下のプリ
アンガーのレヘント統治区に関する著書の中にパゲラン クスマディナタ9世も登場して
いるのだが、チャダスパゲランの故事にはまったく言及されていない。[ 続く ]