「大郵便道路(60)」(2025年03月11日)

< スムダン Sumedang >
バンドゥンを離れて東方へ少し北寄りに40キロほど進むと、北のブランラン山およびト
ゥングル山の斜面と南のチャランチャン山の斜面が作り出す丘陵と渓谷を通過して大郵便
道路はスムダンの町に入る。

はじめてそこを訪れたイギリス人ウィリアム・ソーン大佐が1815年に提出した報告書
には、スムダンの印象がこう記されていた。
農地と農園がたいへん肥沃な丘陵と渓谷にひろがり、互いに連結し合って魅力的なバリエ
ーションを示している風景は、素晴らしい美しさを楽しませてくれる。住民の肌の色はジ
ャワ島の他の土地よりも明るめで、顔つきも優しい。女性は魅力的な姿をしており、その
中にはとても美しい者もいる。


大郵便道路建設工事の際に、スムダンの町に入る手前の山で、山腹を削って道を作る工事
がとても難渋したそうだ。その場所にはたいへん硬い巨岩が連なっていて、それを人間が
簡易な道具で削っていくのだから、エネルギーをたっぷり搾り取られる難工事になった。

インドネシアが独立した後、1980年代にそこにプリブミ貴族の銅像が建てられたが、
2011年末に別の構図の記念碑に取り替えられた。現在の記念碑はその難工事が行われ
たときにそこで起こったエピソードを描写しているのである。

スムダンの町のアルナルンから8キロほど手前にCadas Pangeranと名付けられたその難所
の西端が位置しており、そこには台座の上にふたりの人物が対面して立っている像が設け
られている。人物のひとりはダンデルス総督であり、握手しようとして右手を差し出して
いる。もうひとりの人物はプリブミ貴族であり、この人物は右手で腹に吊るしたクリスの
柄を握り、ダンデルスとの握手のために左手を前に出しているのだ。この像の解説ストー
リーはこうなっている。


その工事のためにダンデルスは現場に吊り橋を架けるように命じ、スムダンの住民をメイ
ンにして1千人を超える作業者を強制的に狩り集めた。(その徴用が無報酬だったと、わ
たしの読んだすべての情報が物語っていた。)ダンデルスはそれでも足りずに、作業者の
徴用を近隣のガルッ、タシッマラヤ、スバン、インドラマユまで広げさせた。

政庁の兵隊の監視下に無報酬の強制労働で何週間も何カ月も現場に足止めされたなら、最
初は食べ物を持ってきていた住民たちも、そのうちに食糧が尽きてしまう。空腹と過労で
住民はバタバタと倒れて死に、あるいはまたマラリアなどの疫病の餌食になって死んだ。
死者の数は5千人に上ったと言われている。

スムダンの郷土文化研究者のひとりは、その証拠が現存していると語る。チャダスパゲラ
ン橋の上の方に大きい集団墓地の遺跡があるそうだ。多分、数千人の遺体が納まる規模に
なっていると判断されたにちがいあるまい。


ダンデルスが政庁の総力を挙げて行わせている大郵便道路建設工事のために自分の領民が
大量に死んでいることを知った当時のスムダンのブパティPangeran Kusumadinata9世は
立腹した。通称Pangeran Kornelと呼ばれているパゲラン クスマディナタ9世はダンデル
ス総督が工事の視察にやってくるのを待って工事現場を訪れ、ダンデルスに対面した。記
念碑の像はそのときのありさまを再現したものとされている。

これは決して、パゲラン コルネルが激情に突き動かされてダンデルスに一太刀浴びせた
というような話ではない。その像が示しているように、ブパティは穏やかに、しかし上司
に対してたいへん失礼な姿勢で対面しているのである。オランダ東インドの行政統治機構
の中で、ブパティは単なる下部地方行政首長にすぎない。ダンデルス総督は行政機構のト
ップに座している人物なのだ。[ 続く ]