「ブタウィの結婚(4)」(2025年03月13日)

父親が息子に「結婚したいか?」と尋ねて息子が否定する場合、父親は間をあけてその質
問を繰り返す。結婚適齢期に入った男児は結婚するのが社会常識になっているからだ。結
婚適齢期に入ってから何年も経つというのに独身を続けていると、世間のネガティブな噂
のタネになる。これは女だけでなくて男も同じ目に会う。

あそこの息子は夫婦生活ができなんじゃないか、などと他人の懐をかき混ぜるような噂が
立って、隣近所からも見下しと言うか、お可哀そうにというか、蔑みの視線が絡むように
なったりすれば、親の立つ瀬がなくなる。そうなると、親は息子に因果を含めて結婚を強
制することになる。目指す相手が息子にいなくても、やりようはある。マッ チョンブラ
ンに嫁探しを依頼するのだ。

マッ チョンブランを職業として成り立たせている需要がそんな形で存在しているのであ
る。マッ チョンブランは自分が娶せた夫婦が円満に結婚生活を送ってたくさんの子供に
囲まれた健やかな家庭を築くことが自分の業績になるから、人を見る眼がビジネスのため
の重要な技能になっていた。妻を求めているその息子の人柄を見極め、この男が気に入る
娘、そしてまた夫婦になってから息のピッタリ合う娘を探し出してくるのが、マッ チョ
ンブランの腕の見せ所ということだろう。


大昔から人間が生殖活動を開始する時期に入ると、性行動を世の中でみだりに行わせない
ようにするために結婚という制度が設けられたようだ。性行為は決まった相手と行い、生
まれた子供の養育をそのふたりが責任をもって行うことが社会の存立に重要な意味を持っ
ていた。その意味からブタウィでは、結婚しない男や女は健全な社会を築く意思を持たな
い人間と解釈されることになったのではあるまいか。

結婚して妻を持ち子供までできた男は、自分の妻子を養うために世の中に出て働かなけれ
ばならなくなる。つまり結婚とは男児が社会人に育つための扉にたとえることもできるは
ずだ。子供から大人に成長するための精神の変革がそこに伴われることになる。

インドネシアで全般的に言える習慣として、年齢がものごとの承認条件になっている法律
にはすべからく、その年齢に達していなくとも結婚していれば承認されるという条件が付
けられている。その伝統は、結婚した者は年齢が未達であっても社会的な責任を負うため
の精神的な成熟があるはずだという考えにもとづいているように思われる。

そう考えるなら、結婚したがらないブタウィ人の男児は、性生活面はさておいて社会人あ
るいは大人になりたくないと思っているだらしない子供だという解釈が成立するから、隣
近所から蔑まれてもしかたないということが言えるようにも思われる。


ブタウィ人は昔から、料理の上手な娘を嫁にもらうことを理想にしていた。ブタウィ社会
でも結婚を含めてさまざまな通過儀礼の祝宴が営まれ、祝宴のために隣近所から遠方の知
り合いまでが助け合いのためにやってきて、家の裏庭をいっぱいにして料理が作られる。

手伝いにやってくる母親たちはわが娘をそこへ連れてきて手伝わせる。その家に年ごろの
男児があればそれはそれで。もしもその家に年ごろの男児がいなくとも、他の手伝いの母
親の目に留まるかもしれないのだ。そんなときに母親は娘に目いっぱい美しく化粧させ、
きれいな服を着せ、髷には油を塗ってkonde licinにさせて連れてくる。男というものは
コンデリチンに弱いらしく、オランダ人までもがジャワ女のコンデリチンにふらふらと惑
わされるのが普通だったらしい。

仕事をしに行くのか、お目見えに行くのか、よくわからない娘もいたにちがいあるまい。
しかしてきぱきと仕事をする姿を示さなければよい評価はもらえないし、ましてや美味し
い料理を作らなければ相手にしてもらえなくなる。

その家に年ごろの男児がいれば、そんな台所仕事の仕事場を覗いて手伝いの娘たちを品定
めし、これぞと思った娘のそばへ行ってちょっかいを出す。気に入った娘が鍋をかき混ぜ
ていればAduh, abang ingin jadi centongnye.と言ったり、ヤシの果肉を削っていれば、
Aduh, abang ingin jadi kelape.などと言ってひやかす。[ 続く ]