「大郵便道路(119)」(2025年05月31日) < シドアルジョ Sidoarjo > 18キロ南下して大郵便道路はシドアルジョに入る。ウォノクロモからまっすぐ南下して きた大郵便道路はそのままシドアルジョ県の中央を突っ切ってグンポルに入り、そこから 左に湾曲して南東にあるバ~ギルに向かう。 ところが現代のシドアルジョ県縦断道路はスラバヤ〜マラン街道とも呼ばれていて、バギ ル方面に分岐せずに直進を続ければプルウォレジョ〜シゴサリを経てマランに達するので ある。東ジャワ州でスラバヤに次ぐ第二の都市にのし上がったマランの経済力がタパルク ダ地方をはるかにしのいでいる現代の状況がその道路の姿に色濃く反映されているように 思える。 西方のモジョクルトからモジョサリ〜~ゴロを経てグンポルに入って来る、Jalur Tengah と呼ばれるジャワ島中東部横断中央ルートはわたしが常道にしていた道で、その道はスラ バヤ〜マラン街道につながり、いつも大渋滞しているその合流点から北へ向かう車線に乗 り入れてしばらく走ってからわたしはバギルに向かう道に脱け出していた。 国道1号線はどうなっているかと言えば、スラバヤ〜グルシッ自動車専用道になってスラ バヤに入ったあと、スラバヤ東インターチェンジでスラバヤ〜グンポル自動車道につなが り、グンポルまで国道1号線として進んでくる。そしてグンポルからバギルに向かう一般 道が国道1号線になるのである。 そういうことだから、トゥバンからグンポルまで国道1号線は大郵便道路とオーバーラッ プしていないことが明白になった。現代インドネシアの交通の大動脈である国道1号線は 既にダンデルスの大郵便道路を見放していたのだ。 VOC時代のシドアルジョは何の価値も持たない寂れた漁村だった。スラバヤの南部から シドアルジョまでの大郵便道路の東側にある広大な低地には海に向かうたくさんの川が流 れ、養殖池が作られるのにもってこいの自然を提供していた。シドアルジョは食料のため の魚の生産地の役割を務めていた。 大郵便道路が建設される前、そこにはモジョクルト・マラン・スラバヤに向かう道路が交 差する場所に小さい市場があっただけだったそうだ。シドアルジョという町は大郵便道路 によって生まれた都市だと、ガジャマダ大学都市計画専門家は述べている。 オランダ人がやってくるよりずっと以前から、この地方は洪水が年中行事になっていた。 エルランガ王の時代に作られた、1047年の年号を持つ石碑によれば、その地はカフリ パンという名前で王国の都になっていた。クラゲン碑文には、大きい川の氾濫は堤防が崩 壊したのが原因であり、その結果多くの農民が作物を失ったために逃散したので、王が堤 防の修復を命じたことが記されている。修復工事が行われてから、農民の苦難は減少した。 農民は王の民を思う心を賞賛し、航海する商人も悦び、他の島々からカフリパンを訪れる ひとびとも王をほめたたえた。11世紀にシドアルジョで治水工事がすでに行われていた ことをその碑文は物語っている。 1859年までシドアルジョはシドカリという地名だった。住民人口2,250人で、華 人が5百人住んでいた。1915年のシドアルジョの人口は5万人で、ヨーロッパ人9百 人、華人2,780人、その他の在留東洋人1百人がそこに含まれていた。 実を言えば、シドアルジョの地はブランタス川が作った河口デルタ地帯にほかならない。 オランダ東インド政庁はエルランガ王の昔に倣って治水工事を行い、低地の全域を農業用 地に改善した。東の沿岸部へ行けば行くほどサトウキビ農園や魚の養殖池は広大に散開し ている。長い歳月の間に陸地が海に向かって広がったのだから。 プルガンやカランアニャルの村々には泥の丘が形成され、地中から蒸気を噴出させる穴に 出会うことがある。[ 続く ]