「ジャヤカルタの謎(終)」(2025年11月20日) 1940年にはナチスドイツがオランダを占領したためにオランダ東インドは連合国側に 属して反ドイツ態勢を敷き、東インドにいるドイツ人はオンルス島に抑留された。194 2年に日本軍がオランダ東インドを占領するとドイツ人はオンルス島から解放され、日本 軍はインドネシアの大物犯罪者をオンルス島に収監するようになった。ジャヤカルタの話 に戻ろう。 クーンがジャヤカルタを滅ぼしてから地名がすぐにバタヴィアに変えられたわけではない。 クーンは要塞をバタヴィア城と呼び、町の名前をニューホールンにした。ところがVOC 重役会が1621年3月4日付けで町の名前もバタヴィアにすることを決定した。町の名 が公式にバタヴィアと呼ばれるようになったのはジャヤカルタが滅んでから2年近く経過 してからということになる。だがシュメドロップも書いているように、オランダ人はもっ と以前からジャヤカルタをジャカトラと呼んでいたのだ。 ジャヤカルタの滅亡後に大勢の人間がやってきたので、一年後にジャカトラは二倍の広さ に拡大したとブタウィ史家のアルウィ・シャハブは書いている。バンテンから大勢の華人 がやってきて華人住民人口は4千人になった。他にもドイツ人とオランダ人が合計1千人、 黒人が2千人いた。黒人とはインド・ビルマ・セイロン人の奴隷を意味していた。 バタヴィア城市がカリブサルを中心線にして東西にほぼ対称形に作られたのに比較するな ら、ジャヤカルタの町は元々その西半分だけだったのである。だからバタヴィア城市が城 壁で囲まれたとき、面積はジャヤカルタのほぼ二倍になったはずだ。 ジャヤカルタの町は最初、竹の城壁に包まれていた。オランダ人の脅威が高まってからレ ンガ壁に作り替えられている。ジャヤカルタの王宮は現在歴史遺産に指定されているコタ インタンの跳ね橋の辺りにあり、王宮の近くにアルナルンがあってパサルが設けられてお り、また王宮周辺には王宮高官職者たちの住居が並んでいた。建物は竹づくりの高床式で、 屋根はサゴヤシの葉で葺かれていた。ということは、火に極めて弱い構造をしていたとい うことだ。当時のジャワ島の港湾都市というのはたいていそんな形態になっていた。 ジャヤカルタの町から少し東方のアンチョル地区は王宮の高位者たちが狩猟を楽しむ猟場 になっていて、野牛・サイ・トラ・イノシシなどが徘徊していた。 VOC軍がジャヤカルタの町を占領して焦土にしたため、住民たちはたいていが南や西の 方角に逃げた。南はボゴールであり、西はバンテンだ。中にはサラッ山の麓まで逃げた者 もあったそうだ。逃げた住民の一部はまた戻って来たものの、昔住んでいた場所に戻るこ とができず、町から少し離れた辺地に住んだ。そして新たにやってきた外来者と混じり合 い、ブタウィ人の祖先になった。 一方戻らなかった者たちはチプタッ・チサラッ・チブブルなどに住み、ジャワ文化に染ま っているそれぞれの地元民と混じり合ってブタウィオラと呼ばれるブタウィ人のバリエー ションを形成した。 領主のウィジャヤクラマと取巻きの貴族たちはジャティヌガラカウムに逃げた。今、ジャ ティヌガラカウムにはウィジャヤクラマの子孫の墓があるが、ウィジャヤクラマの墓はバ ンテンのカンプンカトゥガハンに建てられている。[ 完 ]