「ジャヤカルタの謎(9)」(2025年11月19日)

バタヴィア時代が始まってからもオンルス島は重要な役割を担い続けた。1656年にふ
たつのバスティオンを備えた小型の要塞が建てられ、1671年にそれが5辺形に拡張さ
れてバスティオンは5つに増やされた。1674年には倉庫が増やされ、風車が建てられ
て製材機がうなりをあげた。1695年のオンルス島には148人の造船職人と管理者お
よび防衛軍兵士、そして200人の奴隷がオランダの植民島になったオンルスに住んでい
たそうだ。

イギリス人としてオーストラリアをはじめて訪れたキャプテンクックの指揮するエンデヴ
ァー号がイギリスへの帰国途上で1770年にバタヴィアに立ち寄った。世界の頂点を競
い合っていた両国関係の中でそんなことが起こったのは奇跡に近いできごとだっただろう。
エンデヴァー号に船体の損傷と食糧の欠乏が起こらなければ、それは起こり得ない出来事
だったとジェームス・クックは報告書の中に書いている。

1770年10月10日にバタヴィアに上陸したクックはカスティルの総督庁を訪れてペ
トルス・ファン デル パッラ第29代総督に面会し、船の修理と食糧補給を申請してその
費用を話し合った。そのあと、エンデヴァー号はオンルス島に入って食糧補給と修理作業
を受け、それが終わってから12月8日に再びバタヴィアを訪れて12月25日まで滞在
した。クックの見たバタヴィアの町の様子はこのようなものだった。

半マイルくらいの距離で運河が町と海を結んでいて、交通は昼間だけ行われ、夜には巨大
な丸太が運河に張られて交通できなくなる。街中には小舟が行き交う運河があり、川岸に
は大きい教会のドームが映えている。

しかしバタヴィアはヨーロッパ人が訪れるべき町ではない。ヨーロッパ人はこの町を訪れ
るのを嫌い、どうしてもということになれば滞在をできるだけ早く切り上げて町から出る
ことを望んだ。われわれがここへ来たときは全員が出帆前の船のように健康だったにもか
かわらず、オンルス島に二カ月ほどいる間に乗組員を7人失った。あるオランダ人船長は
こう語った。「乗組員の半数を失わなかっただけ、あなたは幸運だったよ。」

しかし乗組員の病死はエンデヴァー号がバタヴィアを去ったあとも継続したのである。船
がイギリスに到着したとき、94人いた乗組員は64人になっていた。クックはオンルス
島で行われている船舶修理作業の技術の高さを賞賛したそうだ。優秀な船大工が集められ
ていたのだろう。そのころ、オンルス島の住民人口は1千2百人に上っていた。


1911年から1933年まで、オンルス島はメッカ巡礼団の帰国時保健隔離施設として
使われた。オランダ東インド政庁がムスリム住民にメッカ巡礼の便宜を図る方針を打ち出
したのは1859年のハジ法制定が始まりらしい。

政庁が作ったシステムを民間に運用させてオランダ東インドからのメッカ巡礼団を送り出
すことが行政がらみで始まったのだ。ロッテルダムロイド、ネーデルランド蒸気船会社、
オーシャン蒸気船会社の三船会社が運送機関に指定され、エージェントが各地に林立して
巡礼希望者を募りその世話をした。アラブ半島との往復航海はたくさんの港に立ち寄った
ので船旅は数カ月という長期間に及び、本人負担になっている食費その他の旅行中の費用
はたいへん大きな金額にのぼった。

パンイスラミズムの国内への浸透に不安を抱いている政庁は巡礼参加者へのディスカレッ
ジ要因として旅行費をハイコストにする傾向を抱いていたために、エージェントに払う金
額も高くなりがちであり、普通の経済レベルの人間にとってメッカ巡礼は生涯に何度も行
えるものでなかった。それでも参加者はたいへんな数にのぼった。

1878年の参加者総数5,331人、1880年9,542人。1921年には28,
795人に達して、その年のメッカ側がカウントした巡礼者総数の47.3%を占めた。
1933年からオンルス島は流刑地に変えられた。その年にスマトラ島沖で発生したオラ
ンダ王国海軍艦艇デゼーフェンプロフィンシエン号の反乱で有罪になった者たちを収容す
るためで、そのためにメッカ巡礼団の帰国時隔離は別の島に移されたようだ。[ 続く ]