「インドネシア鉄道史(42)」(2025年11月21日) 1886年に鉄道事業の認可を得たOost Java Stoomtram Maatschappij東ジャワ蒸気鉄道 会社(略称OJS)はスラバヤとモジョクルトで工事を開始し、1889年10月1日にモジ ョクルトのカプットゥガン製糖工場とモジョアグン間を結んで行われた初運行が事業のス タートになった。今はスンタネンロルと呼ばれているその製糖工場は1834年に創業し たプルウォクルト最古の製糖工場であり、世界恐慌のために1930年に操業を終えた。 製糖工場がなくなってからOJSはその場所にモジョクルトカリ駅を設けている。 スラバヤでは1889年12月10日にウジュンとプリンスヘンドリック要塞間で初運行 が行われた。1890年4月15日にスラバヤコタ〜グルド間の運行が開始され、5月に はグルドとウォノクロモコタ間が開通し、9月にスパンジャンに達した。1890年12 月17日に要塞とスラバヤコタ駅が結ばれている。同社は更にスパンジャンからシドアル ジョ県クリアンまで路線を延ばして1898年2月にオープン式典が催された。 それとは別にOJSはまた、レヘンストラアト(今のクボンロジョ)〜パサルトゥリ〜ウォ ノクロモというルートに線路を敷いて1916年3月2日から運行を開始した。 モジョクルトでのOJSの事業は1892年にグムカン〜ディノヨ間の運行が開始され、さ らにモジョアグンから~ゴロまで延ばされた路線が1909年1月1日から、モジョクル トカリからワテスへの延長区間が4月1日からそれぞれ運行されるようになった。 1922年の路線図によれば、モジョクルト地区でOJSのモジョクルト駅からSSモジョク ルト駅への線路が引かれていたそうで、これも支線のひとつに数えられるべきだろう。 沿線にあるSelorejo, Sumengko, Sukodono, Brangkal, Dinoyo, Kapettengan, Mojoagung などの製糖工場が同社の鉄道路線にとってはもっとも重要な収益源になっていたようだ。 この会社はそれらの鉄道運行事業と別に、スラバヤ市内で路面電車の運行をも手掛けた。 まずレヘンストラアト〜タンジュンぺラッ間の路線運行が1920年に開始されたのであ る。路面電車を最初に港に入らせたのは、そのころウジュン埠頭とマドゥラ島カマル港を 結んでマドゥラ蒸気鉄道会社が連絡船を運航させていたことが大きい要因だったと解説さ れている。 1923年にはウォノクロモ〜ヴィレムスプレイン(ジュンバタンメラの北側西岸)、カ ヨン〜フッパルメンラアン(今のスディルマン通り)、サワハン〜トゥンジュガン、ヴィ レムスプレイン〜タンジュンペラッの各区間が順番に開通して行った。そして路面電車ル ートの最後はカヨン〜スラバヤグブン〜カンプングブンの1924年の完成で締めくくら れ、同社の路面電車事業がフル回転するようになった。 OJSの路面電車がその前からあった蒸気鉄道に取って代わったというような単純な話でな く、ルートの一部を路面電車に譲った蒸気鉄道はもっと西側に位置を変えてウォノクロモ からディポヌゴロ通り〜クパン〜パサルトゥリ〜クボンロジョ〜スラバヤコタというルー トに移され、そこから最初に設けられたタンジュンぺラッに至るルートにつなげられた。 1927年までにOJSの路面電車を利用した乗客数は1,140万人に上ったそうだ。路 面電車は利用対象が乗客のみになっていた一方、鉄道は乗客と貨物が最初から対象にされ ていた。同時期の同社の蒸気鉄道利用者数累計は520万人とのことで、鉄道路線の方は いかに貨物輸送が事業に大きなウエイトを占めていたかということがその数値からうかが えるように思われる。 独立インドネシア共和国初代大統領スカルノは植民地時代に行なわれていたすべての鉄道 事業を国有化することを決定し、政府内に鉄道局を設置してその事業を引き継がせた。SS のものだけでなく、すべての民営鉄道もその対象にされたのである。 鉄道局はスラバヤの路面電車を1968〜1969年に廃止し、送電架線が撤去されて線 路は道路の下に埋められた。一等車15セン、二等車10センの乗車料金でスラバヤの路 面電車を生かし続けることはできなかったようだ。さらに1978年にはスラバヤ市内を 通っている近距離鉄道路線がすべて廃止された。こうしてOJSが敷いた民営鉄道路線はス ラバヤから姿を消してしまった。[ 続く ]