「バリ島観光(2)」(2025年11月22日) 東インド政庁が本格的に東インド植民地のツーリズム振興に着手したのは1908年のツ ーリズムビューロー設立以来のことだ。それ以前にも東インド観光を行ったひとびとはた くさんいたが、世界諸国がオランダ東インドに興味を抱くことで植民地経営の邪魔になる 事態が出現するのを怖れる政庁は観光客に対して事細かく規制を与える姿勢を執った。1 897年にエライザ・スキドモアが著した「東洋のガーデン、ジャワ」と題する旅行記は ジャワ・マドゥラ・バリをその後訪れるひとびとのガイドブックになった。 もちろんその時期にオランダ語のガイドブックがなかったわけでもなく、ガイドブックは 東インドを自分の目で一度は見てみることをオランダ本国の読者に推奨していた。 ツーリズム振興が開始されてから、西ジャワのプリアガン地方がまず旅行目的先としてプ ロモートされ、水田を埋め尽くす稔った稲穂を刈り取る農民の姿が遠くのかすんだ山々を 背景にして映えるエキゾチックなイメージが売り物に使われた。Jave, The Wonderlandが 初期のキャッチフレーズだった。 しかしジャワ島の経済発展がモダン化を促進させるようになると、ツーリズムモチベーシ ョンの中にあるプリミティブ観光の要素が希薄になり始めた。観光客に与える誘引力が衰 えるのを懸念したツーリズムビューローはその要素を満々と湛えている土地を探す必要に 迫られ、そしてバリ島に脚光が当たったのである。 ツーリズムビューローは1914年からバリ島のプロモーションに着手し、1920年代 には世界中が「地上最後の楽園」を謳い文句にするバリ島の地名を耳目にするようになっ た。デンパサルで1927年にバリホテルがオープンし、バリ島初のヨーロッパ式ホテル の誕生がバリ島ツーリズムをバックアップした。 米国人ミュリエル・スチュアート・ウォーカーは1933年にバリホテルに投宿した。か の女はバリ島観光プロモーションのために作られた観光宣伝映画を見てバリ島に憧れ、単 なる観光客でなく生活体験を求めてバリ島に移り住んだ。このストーリーは http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-15_MurielofBali.pdf でどうぞ。 バリホテルは今もデンパサル市内のJalan Veteran No. 3にあって、Inna Bali Heritage Hotelという名称で営業している。エリザベス女王やマハトマ・ガンジーもバリホテルの 宿泊客になった。 やはりオランダ東インド観光振興に乗せられただろう人物に喜劇界の王者チャーリー・チ ャップリンがいる。1926あるいは1927年にジャワ島を訪れてプリアガンからガル ッまで訪問し、1932年あるいは1935年に再びジャワに来て再びプリアガンからガ ルッ経由でスラバヤに至り、バリに渡った。バリ島には4月4日から10日まで滞在する 予定だったが一週間滞在を延長して4月17日にスラバヤに戻っている。イ_ア語インタ ーネットから得られる情報に書かれている年はバリエーションに満ちており、上のような 書き方になってしまった。こうなってくると、他の言語で書かれている情報だから正確と いう判断も難しい。イ_ア語情報を参照して書かれていないという断定が不可能なのだか ら。 1930年代に入るとツーリズムビューローはバリ島観光宣伝のスタイルをさらに絞りこ んでいった。ロマンチックでエキゾチックな伝統文化の民が住む島。神秘的なヒンドゥ寺 院、明るく落ち着いたバリ島の水田風景、そして老いも若きも乳房を隠さない女性たちを 至る所で目にすることのできる隠れたパラダイス、バリ島。 このセールスポイントは現実によってサポートされなければならない。バリ人の生活文化 は昔のままでなければならないのだ。バリ人にライフスタイルを変えるようなモダン化を 起こさせてはならず、またかれらの間にナショナリズムの火を点けさせてもならない。ヨ ーロッパ人がモダン化をバリ島に持ち込むことももっての他になる。 ジャワ島で行われているような農園産業と産物の加工工場、製品を港に送って船積みする ための輸送インフラに至るまで、バリ島の公共空間にそのようなものが姿を見せれば、セ ールスポイントは空文になってしまう。バリ島のモダン化は観光産業を支えるためのもの だけがあればよいという行政方針が確立された。[ 続く ]