「バリ島観光(3)」(2025年11月23日) その時代のヨーロッパには、世界の最先端にあるわが文明がこの地球をリードするという 自負と確信が横たわっていた。それが植民地主義の中に流れ込むことによって植民地主義 が正義の思想になった。ヨーロッパ世界の外にあるのは低い文明の土地と民であり、かれ らを統治支配して文明化させることがわれわれに託された名誉ある義務なのだ。 ほら、かれらのプリミティブさはこのようなものなのだよ、という実例を自分の目で見る ことを西洋の民衆は好んだ。それが観光産業の中にプリミティブツーリズムというジャン ルを作った。 プリミティブツーリズムの頂点は1931年にパリで開催された国際コロニアルエキスポ だったように見える。オランダパビリオンはバリ建築をフィーチャーし、ガムラン伴奏で 踊るバリ舞踊をそのハイライトにした。それがヴァルター・シュピーズやミゲル・コヴァ ルビアスをバリに引き寄せて住み着かせる動機を提供した。 バリ島を時間の中にフリーズさせて島内の人間の暮らしを演技でない地のままのプリミテ ィブ博物館にしておき、日進月歩する世界のひとびとの展示品にするというのがオランダ 東インド政庁の行ったバリ島植民地運営の中身だったように思われる。それを人権侵害と 呼ぶべきなのだろうか? それは多分、バリ人に任せておけば良いことだろう。興味深いことに、インドネシアが独 立した後のスカルノレジームもスハルトレジームも、オランダ植民地政庁が打ち建てたバ リ島ツーリズムを維持継承しているのである。スカルノはサヌールにバリで最初の5星級 バリビーチホテルを建て、トゥバン空港を国際空港に拡張した。 バリビーチホテルは1962年に建設工事が開始されて1966年に完成している。19 63年に開始されたトゥバン空港拡張工事は1969年に完成し、スハルト大統領が完成 式典を行ってグラライ空港の名前を与えた。 インドネシア独立に際してバリ人がバリ島ツーリズムを否定したのであれば何らかの悶着 が起こっているはずだが、そんな記録は見当たらない。バリ人自身が伝統を重要視し、自 分の文化が変質して行くことを嫌った要素がそこに潜んでいたことも十分に推察できるの である。バリ島ツーリズムはその面におけるバリ人への尊重姿勢だったという解釈も十分 に成り立つのではあるまいか。 もうひとつ興味深いのは、植民地時代にバリ島ツーリズム振興の一環として、バリ島に鉄 道線路を敷くアイデアが検討されたことだ。その情報には、1930年代ごろにバリ島と ロンボッ島で鉄道を走らせることが検討されたと書かれている。そのアイデアがどのよう な内容だったのかはわからない。 植民地時代の東インドにおける鉄道敷設ポリシーは物産物資の輸送が第一目的とされてい て、内陸部の輸出産品を輸出港に輸送することが鉄道の使命にされていた。バリ島の場合 はそんな要素のかけらもない、観光客を運ぶ輸送機関としての鉄道なのだから、きわめて 異例のものになる。 観光客がバタヴィアで入国し、ジャワ島から海路バリ島にやってくるのであれば、バタヴ ィア・スマラン・スラバヤからバリ島への海上航路は北部のシガラジャ港につながるだろ う。しかしシガラジャ近辺に観光スポットがあまり多くないから、観光客は南部のクタや サヌールに向かうことになる。 その場合に脊梁山地のど真ん中にあるブラタン湖やブドゥグルを突っ切って南下してくる か、さもなければ東に迂回して平坦な海岸沿いをカランガスムのアムラプラに向かい、そ こから南東のサヌールに向けてギアニャル経由で鉄路を敷く案が考えられるとはいえ、バ リ島を半周する大工事になるのは明白だ。そうであるなら、いっそのことバリ島の沿岸部 を一周する周遊鉄道も魅力的に思われるが、早晩、倒産する可能性が高いような気がわた しにはする。[ 続く ]