「ランファンコンス(6)」(2025年12月06日) コンス側を一致団結させないためにオランダ側はサムティキオウ公司の存在を重要な手駒 と考えていた。そのためにはサムティキオウ公司の壊滅を主張しているコンス側の首魁、 タイコン公司を撃滅する必要がオランダ側にある。 1853年5月12日、クルセン少佐率いる2百人の部隊に支援されたファン ホウテン 指揮下の160人の部隊はタイコン公司軍に決戦を挑み、さんざんに打ち負かした。逃げ たタイコンの組織員はその後4年間、反オランダゲリラ闘争を継続したものの状況を覆す のは不可能だった。 タイコンのゲリラ戦闘員たちが蘭芳公司と連絡を取ったのは言うまでもない。蘭芳公司が タイコンの二の舞を踏むであろうことは蘭芳公司の指導者層にとって明白な共通認識にな っていた。華人コンスが百年に渡って続けてきた黄金採取事業をオランダが横取りしよう としていることはもうだれの目にも明らかになっていたのだ。 最終的に蘭芳公司もオランダ軍に攻撃されて領地を占領された。蘭芳公司最後の総長にな った劉阿生の没後、蘭芳公司は完全にオランダ人の支配下に落ち、蘭芳公司領内の華人住 民の一部はオランダ軍の攻撃を避けて逃亡し、スマトラ島やマラヤ半島あるいはシンガポ ール島に散らばった。オランダ政庁は清朝廷の怒りを考慮して蘭芳公司を滅ぼすのを控え、 オランダの言いなりになる蘭芳公司の華人子孫をリーダーに据えてかれらを自由に操った。 そして清朝が滅んでからオランダは1912年に蘭芳公司を滅亡させた。 オランダは蘭芳公司の建築物や書類を破壊しまた廃棄したために、往時の繁栄の歴史を物 語る資料がほとんど残されていないと地元華人社会の識者は語っている。 シンガポールに逃げた蘭芳公司組織員の子孫の中に英傑が出現した。1959年にシンガ ポールの初代首相の座に就いたリー・クアンユーの曾祖母であるニオ・アースンはポンテ ィアナッからシンガポールに移った蘭芳公司の組織員だったのである。1939年にマン ドル在住華人たちが羅芳伯の遺徳を称える蘭芳公司記念碑をマンドルの市内に建立した。 オランダ人歴史家ヤン・ヤコブ・マリア・デ フロート(1854-1921)は蘭芳公司を共和国と 呼んだ。1885年に出版されたデ フロートの著作Het Kongsiwezen van Borneoには、 蘭芳公司は華人出稼ぎ者が運営した小さい採鉱コミュニティで、首長選挙が民主的に行わ れてコミュニティメンバーの最多数が選んだ者が首長になった、と書かれている。 アメリカ合衆国がジョージ・ワシントンを1787年に初代大統領に選出した際に使われ たのと同じ方法を蘭芳公司は1777年の首長選挙に使用しているとかれは言う。蘭芳公 司が行った運営方法を他のコンスも見倣ったそうで、蘭芳公司は当時の西カリマンタンに できた華人社会のお手本になっていたと見ることができる。 運営システムを調査分析したデ フロートは共和国方式であるという定義をそれに与えた。 羅芳伯から最後の首長となった劉阿生の1884年まで、民主的な方式は一貫して使われ ていた。羅芳伯はコミュニティメンバーの会議を開いて金鉱の拡張・事業資金の拠出・利 益の分配などについての意見を求め、最終決定を行った。法規・銀行・交通網などの制度 も設けられていた。 コミュニティメンバーはその必要が生じた時に戦闘部隊に変身した。オランダが蘭芳公司 を滅ぼそうとしたとき、植民地軍がそれを成し遂げるのに十数年の歳月を必要とした。 [ 続く ]