「ランファンコンス(5)」(2025年12月05日) 西カリマンタンの金鉱開発を華人コンスが行っている状況はオランダ東インド政庁に強い 不快感をかき立てた。東インドはオランダが長い歳月と血と汗を代償にして手に入れた土 地なのである。そこで採掘されている黄金はオランダの権利なのであり、華人がオランダ の権利を掠め取る連中であることはVOC以来の歴史が示している。 まず、華人対策が開始された。既に西カリマンタンの行政統治を握っていたオランダ政庁 はサンバスの副レシデンであるミュラーに華人への課税を命じた。1818年にミュラー はモントラドゥッに赴き、華人コンスとの顔つなぎと状況視察を行い、課税措置を言い渡 した。1819年2月4日付けで出された規則には、16歳以上の全華人は毎年人頭税を 納める義務を負い、最大4回の分割納税が認められるという内容が記されていた。 そしてしばらくの間、状況の変化を観察してから、神経戦が開始された。華人たちは納税 を拒否し、地元プリブミを抑圧して搾取しているという宣伝が流されたのだ。華人を取り 巻く地元勢力と華人を切り離す謀略であり、同時に華人への挑発でもあった。そんなこと は華人にも十分解っていた。たとえ従順にオランダの支配に服従していたところで、最後 には追い出されて金鉱を奪われるのが目に見えている。華人たちは対オランダ戦を決意し た。コンス本部建物を要塞化し、組織員の軍備を強化したのである。 華人たちはアヘンをも取り扱っていた。コンスの事業の中で行われていたのかもしれない。 しかし東インド政庁はアヘンを政府の独占事業にし、法規を定めて違反者の取締りを厳格 に行っていたから、コンスの人間がアヘンを取り扱うのは違法行為に該当する。オランダ のフリゲート船がアヘンを積んでいる華人の船をサンバス河で捕らえた。するとプマンカ ッのコンスが戦闘部隊を出して攻撃して来たから、オランダ側ももう一隻フリゲート船を 要塞化したプマンカッのコンス本部に送って攻撃した。 激しい戦闘が行われて1850年9月12日にコンス本部は陥落したが、オランダ側の指 揮官も戦死した。オランダ側はプマンカッのコンス本部を占領しないでサンバスに引き上 げたので、華人側はコンス本部を修復して防衛力を向上させた。オランダフリゲート船の 指揮官代行者がその失敗に気付いてプマンカッの占領のために再出撃したものの悪天候が それを許さず、船は目的を果たさずに1850年11月23日にサンバスに引き返した。 するとどうしたことか、1851年初にコンス側がオランダに服従する表明を出してきた ので、協定書が作られ署名がなされた。 プマンカッはオランダの支配下に落ちた。オランダ側はコンス指導者に、要求を呑めば反 乱の罪は赦されて黄金事業がまた行えるようになると宣告した。その要求とはコンス群の 中でオランダ側に着いたサムティキオウ公司の復帰を承認することだった。サムティキオ ウ公司はオランダ側に味方したためにコンス側の反オランダ勢力に追われてサラワクに逃 げていたのである。しかしサムティキオウ公司はタイコン公司がかれらの本拠地であるス パンを抑えてしまったため、戻ることができない。 オランダ軍は1853年3月29日にアンドレセン少佐の率いる部隊をスパン開放のため に派遣した。コンス側の抵抗がまったくなかったために、出撃部隊は目的を達成したと考 えてサンバスへの帰途に就いた。そしてクドンドンまで戻ったとき、コンス側に攻撃され た。オランダ軍基地から分隊が救援に駆け付けたところ、今度は華人部隊が手薄になった 基地を攻撃し始めた。基地は完全に包囲されて多勢に無勢のありさま。 ゾルフ要塞司令官ファン ホウテン率いる250人の部隊が救援に到着して華人部隊への 攻撃を開始したため、華人部隊はオランダ軍基地への攻撃をやめて、ほうほうのていで逃 走した。スパンの開放を維持するには大兵力が必要であることを覚ったオランダ軍はスパ ンを放棄してサンバスに戻った。[ 続く ]