「インドネシア鉄道史(60)」(2025年12月09日)

デリ地方の西洋人農園経営者たちはデリ農園主連盟Deli Planters Vereenigingを編成し
て業界や行政に関わる統一的な動きを行っていた。農園の産品を港へ輸送するための鉄道
建設が農園主たちの会議で決定され、1881年東インド政庁にデリ株式会社の名前で申
請がなされた。政庁はそれに応えて1883年にコンセッションの承認をデリ株式会社に
与えた。

デリ株式会社が中心になって農園主連盟が1883年に発足させた民間資本の鉄道会社が
デリ鉄道会社Deli Spoorweg Maatschappijだ。デリ鉄道会社はアムステルダムで会社登記
を行い、本社をメダンに置いた。その本社ビルが当時まだ寂れていたメダンを大都市に導
く礎石となった。最終的に壮大な建築物になったデリ鉄道会社本社ビルはインドネシア共
和国がオランダ資産国有化を行った際に共和国の資産にされ、今では北スマトラ州庁ビル
として使われている。

メダンの華人指導者のひとりTjong A Fie張阿輝が鉄道路線網の開発にたいへん協力的だ
ったためにデリ鉄道会社の線路網構築はスムースに広がった。チョン・アフィ―はメダン
の華人コミュニティを統率するマヨールチナの初代を務めた人物であり、南洋華僑でトッ
プクラスの富者のひとりだった。1920年にかれが没したとき、20カ所の農園がかれ
の名義になっていて、多数のヨーロッパ人がかれの農園に雇用され、管理職や技術者とし
て働いていた。

デリ株式会社名義のコンセッションはデリ鉄道会社に移管され、メダンとその当時の海港
ラブハンを結んで1886年7月25日にデリ地方で最初の鉄道列車が線路上を走った。
メダン鉄道駅のオープニングがその日付けになっている。
Medan - Pulu Brayan - Titi Papan - Kampung Besar - Labuhan

1887年5月1日にメダンとビンジャイを結ぶ20KM区間が完成してメダン西方の農園
物産がラブハン港に届くようになった。
Medan - Helvetia - Sunggal - Diski - Binjai

次いで1887年9月4日にメダントゥントゥガン地区にあるデリ農園会社のタバコ葉農
園とメダンを結ぶ11.3KMの路線が開通した。デリトゥアまで設けられていた線路は1
915年12月1日にバトゥまで延長された。
Medan - Kampung Baru - Kedai Durian - Delitua - Batu

この路線はメダン駅からまっすぐ南に南下して行く線であり、カンプンバルの手前にある
スルタン王宮イスタナマイムンの前を通過する。そこにかつてSultan van Deliという名
の駅が設けられていた。1909年に王宮の向いにメダン大モスクのアルマスフンモスク
がオープンしたので、以後は王宮と大モスクの間を通る路線になった。この路線は198
8年に閉鎖された。


メダン駅から南下する鉄道線路は現在、市内アニイドゥルス通りを越えてから大きく左に
迂回してスルダン方面に向かい、メダンパサル駅からバンダルハリパ駅へと進む形になっ
ていて、その構図になんとなく不自然な印象を感じるひとがいるのではあるまいか。それ
は南に下って行く路線が閉鎖された結果できあがった形だったためだ。

デリトゥアの西に隣接するアルネミアに向けて1907年にそのカンプンバルから15KM
の支線が敷設された。アルネミアにはロッテルダムデリ社の広大なタバコ農園があり、そ
の支線のおかげでアルネミアの産品が鉄道でブラワン港まで届けられるようになった。ア
ルネミアという地名はオランダ時代のもので、現在はパンチュルバトゥという名称に変わ
っている。(日付は開通日)
1907年10月1日 Kampungbaru ? Pancurbatu (Arnhemia)

カンプンバル〜パンチュルバトゥ間の鉄道路線は現在列車運行がなされておらず、197
3年に閉鎖されたと推測されている。[ 続く ]