「インドネシア鉄道史(59)」(2025年12月08日) 北スマトラ州東岸部のデリ地方というのは元々、デリスルダンのスガイウラルからランカ ッのスガイワンプまでの地域の名称だった。その地方では複数の領主が覇権争奪にしのぎ を削っていたものの、デリスルタン国はそんな争奪戦における台風の目のような存在では なかったらしい。 東インド政庁がその地方を平定するに当たって傀儡支配者として使うのに適切だと見られ たのかもしれない。オランダ人はデリのスルタンに肩入れした。デリのスルタンは186 5年10月7日にオランダ東インド総督と帰順協定書Acte van Verbondにサインを交わし た。東インド政庁はデリ地方にオランダ人首長を置かず、オランダが任命したデリスルタ ンを首長にするオランダ植民地の形式を執った。デリのスルタンは自分を首長に任命した 東インド総督への服従を誓った。 デリスルタン国はデリ河の河口から遠くない流域の港にLabuhanという名の王都を置いて いた。デリスルタン国は通商立国の趣をもっていたのだろう。その町はしばしばラブハン デリと呼ばれて他地方にある同じ地名と区別されている。 現在のスマトラ島内でナンバーワンの大都市になっているメダンはそのころまだラブハン から17KMほど南にある小さい村でしかなく、メダンが大都市に成長してからはじめてス ルタンは新しい王宮をメダンの市内に建ててマイムン宮殿と名付けた。それまでのラブハ ンの王宮は質素なものだったらしい。 メダンが寒村から大都市に生育するきっかけをもたらしたのが農園事業だった。ヤコブ・ ニンハウスとピーテル・ヴィルヘルム・ヤンセンが1869年にN.V. Deli Maatschappij (デリ株式会社)を設立し、デリのスルタンから12万ヘクタールという広大な土地を2 0年間借地してタバコ葉の栽培を開始した。デリ株式会社はデリ地方ではじめて農園事業 を行ったオランダ資本の企業だ。 そしてデリ株式会社のタバコ農園事業が大成功を示したことがたくさんの農園事業者にデ リへの進出を促す結果をもたらした。オランダ・ドイツ・イギリス・ベルギー・フランス ・ポーランドそして米国と、デリの土地は欧米資本の農園で満ち溢れるようになったので ある。デリの諸農園では、広大な農園の中に収穫物を加工場や倉庫に運ぶための700ミ リゲージの線路が敷かれ、Muntikと呼ばれた小型の蒸気機関車が長大なロリー列車をけん 引した。もっと後にはパイパー機が農園の散水や薬剤散布に使われるようになった。 20世紀に入ってから世界中で自動車の普及が進み、ゴムタイヤの需要が顕著な伸びを示 しはじめた。デリ地方では1910年ごろからゴム農園が増加するようになり、オランダ ・イギリス・ドイツ・米国の資本がデリにたくさんのゴム農園を生み出した。そのころか らゴムとタバコ葉がDSMのドル箱貨物として一二を競うようになった。 東インドに輸入される自動車も目覚ましい伸びを示した。1924年と1926年の輸入 台数を比較すると、乗用車は539台から3,059台に、トラックは94台から1,1 72台に跳ね上がっている。 ゴム農園に続いてベルギー人がパーム椰子農園を開き、コンゴから持ち込んだ苗を植えた。 またシアンタル地方で茶葉の栽培が盛んになり、更にトバ湖周辺地域での農民のコーヒー 栽培あるいは地方部での種々の農作物生産が活発化するようになって、DSMの鉄道路線網 は拡張の一途をたどった。 繁栄するデリ地方の諸農園はメダンにその黄金郷のセンター機能を置いた。農園で生産さ れた物産の輸出活動に関わる会社がメダンに林立し、倉庫・運輸・通信・金融などの周辺 産業も集まって来た。メダンでビジネス管理者や事務員あるいはサービス作業者の需要が 大規模に花開いたのである。職を求めてメダンにやってくる者が増加し、町中に住民の家 庭が急増し、生活物資の需要が高まり、教育や文化の諸産業も興った。それらの相乗効果 がメダンを黄金郷にしたのだ。[ 続く ]