「インドネシア鉄道史(62)」(2025年12月11日) トゥビンティンギ駅に蒸気機関車のデポが設けられ、そこには8台の機関車が並べられる 車庫が建てられた。走行業務を終えた機関車が駅からやってくると車庫の前のターンテー ブルに載せられ、その機関車が入るべき車庫内の位置に向かう線路につなげられてターン テーブルを降りる仕組みになっていた。 インドネシアに設けられた鉄道施設としての機関車ターンテーブルはいずれもが機関車を 方向転換させるためのものだ。ところがトゥビンティンギのターンテーブルはそれらと異 なって機関車が入る車庫の位置に向かわせるためのものになっていたのである。 この仕組みはインドネシア全国でただトゥビンティンギにだけしかない。その事実は往年 のDSMの栄光を如実に示すものだと鉄道評論家のひとりは語っている。1915年に建て られたトゥビンティンギ駅のファシリティがそのころのヨーロッパの鉄道駅に引けを取ら ないレベルのものになっていたことをそれが示しているとかれは主張しているのだ。 それは多分、DSMが持った車両機材の多さに関係していたのではないかと思われる。18 86年から1941年までの間に書かれた同社の記録から、DSMは蒸気機関車109台、 動力車10台、客車223列車、貨物車については特定の数字を引き出すのが困難なほど 大量にあったことが判っている。DSMが敷設した鉄道線路は553.2KMに上ったそうだ。 今も稼働しているプマタンシアンタル〜メダン線の乗車ルポを2008年のコンパス紙が 掲載した。当時の鉄道の旅がよく分かって面白い。レポーターは日曜日の朝にプマタンシ アンタルからメダン行きのエコノミー列車に乗った。各駅停車のシアンタルエクスプレス は7時10分に発車した。時刻表には6時45分発となっていたというのに。乗車料金は 片道大人が1.3万ルピア、子供1.1万ルピア。乗合バスだとクラス次第でひとり2. 2万から2.5万ルピアもかかる。 この列車がメダンに到着したのは午前11時半だった。街道を乗合バスで走っても3時間 でメダンに着く。だから時間にかまわないひとしか乗らないのだろう。車内の乗客と話を 交わしたかぎりでは、そんな雰囲気が強く感じられた。客車はわずか2両で、座席の三分 の一ほどしか埋まっていない。 おかげで車内はひろびろしていて暑くないし、小さい子は乗合バスより鉄道の方が好きだ から子供連れの場合だとなおさら鉄道を選択するようになる。暑い乗合バスの車内でイス に縛り付けられたまま3時間の苦行を強いられたなら、子供はきっと地獄の一丁目にやっ てきたと思うだろう。車酔いにでもなれば地獄のエピセントラムになるかもしれない。子 供にそれを我慢しろと言うほうが無理だ。 客車の窓から見える風景は整然とゴムの木が並んでいる長いゴム園。列車はその脇を通っ てドロッムラギル駅、そしてバジャリンゲ駅に停まり、やっとトゥビンティンギに到着し たのが8時半。この駅はたくさんの人で賑わっていた。プマタンシアンタルから客車を引 いてきた機関車はこの駅で外され、客車2両はラブハンバトゥから来た列車の最後尾につ ながれた。6両の客車を引いてラブハンバトゥからやって来た列車はここから8両になっ てメダンに向かう。 それまでがら空きだった車内が乗り込んできた乗客でほぼ一杯になった。しかしほとんど が子供連れであることは共通している。どうして鉄道を選択したのかという質問にかれら もプマタンシアンタルのひとびとと同じような理由を物語った。乗客ばかりか、物売りが 何人もトゥビンティンギから車内に乗り込んだ。 トゥビンティンギ駅で45分間停車したあと、列車は出発した。バンバン、セイランパ、 そしてルブッパカム駅に10時22分に到着。車窓から見える風景にもうゴム園は入って 来ず、パーム農園と水田が交替で出現する。ルブッパカムからプルバウガンまでの風景は 広大な水田に変わった。白いサギの群れがあちらこちらに姿を見せている。 プルバウガンからバタンクイスそしてメダンパサルを通るとき、鉄道沿線のスラム街が否 応なしに目に入る。そして列車はついにメダン駅に滑り込んだ。[ 続く ]