「インドネシア鉄道史(82)」(2025年12月31日)

一方、1946年に旧植民地の復活を目指してインドネシアに戻って来たNICAオランダ東
インド文民政府はインドネシアでの終戦処理を任務にするAFNEI軍に支援されながらイン
ドネシア各地の都市部を再植民地化して行った。鉄道を日本軍進攻前の状態に戻すことを
NICAが行ったのは言うまでもないことだが、全国土が内戦状態になっている状況下に民営
鉄道会社が昔のような鉄道運行事業を行えるはずがない。

その状況に対するブレークスルーとして政府は全民営鉄道会社をSSの管理下に連合させる
方針を打ち出した。そうしておけば民営鉄道会社の現場でSSが何らかの措置を行っても合
法化されるというロジックだったのではあるまいか

インドネシアの独立闘争というごたごたが継続している間、民営鉄道会社は自分で鉄道事
業を再開しなくとも、利益代表者だけをインドネシアに置いておけば資産の保護と監督の
実行をSSが行ってくれるという仕組みとして業界連合組織が設けられたのではないかとい
う解釈が可能だろう。

こうしてStaatsspoorwegen/Verenigde Spoorwegbedrijf (SS/VS)という東インド鉄道網を
一括管理運営する機構が作られた。ただしデリ鉄道会社だけはその連合鉄道会社に加わら
なかった。その時期のSS、つまりはNICA政府がスマトラまで十分にケアできないことがそ
の原因だったのではないかと思われる。


AFNEI軍は1945年のうちにジャカルタを制圧し、11月末にはバンドゥンに進出して
来た。AFNEI+NICA軍はバンドゥン北部を確保し、南部を防衛する共和国軍との攻防戦が
始まる。抗争は1946年3月まで続き、AFNEI軍バンドゥン地区司令官は共和国軍に対
して最後通牒を突き付けて南部を明け渡すよう命じた。

共和国軍は全住民に退去を命じた。しかしおとなしく引き渡すようなことをせず、街を焦
土にし、全戦闘員が攻撃を行いながら街の外へ避難するという作戦が実施され、こうして
バンドゥン火の海のドラマが展開されたのである。バンドゥンのSS本部を所在地にしてい
た共和国鉄道局も進駐軍市内制圧にともなってそこから脱出し、ヨグヤカルタに移転した。
バンドゥンのSS本部は再びSSの手に戻った。


1949年にデンハーグで開かれた円卓会議でインドネシアの正式独立と主権移譲が合意
されたあと、共和国鉄道局はSS/VSの資産と事業を引き継いだ。デリ鉄道会社はその中に
含まれていなかったために、その動きに加わっていない。デリ鉄道会社だけがその後も自
力で鉄道事業を継続していた。

1953年になってDjawatan Kereta Api Republik Indonesiaという名称からDjawatan 
Kereta Apiへの簡素化がなされた。しかし実質的に行政機関でなくて事業体であるという
面に鑑みて、1960年にPerusahaan Negara Kereta Api鉄道国有会社に名称が変更され
た。オペレータとレギュレータの機能分離がなされたということだろうか。

デリ鉄道会社の事業がいつインドネシア政府鉄道局に吸収されたのかはよくわからない。
イ_ア語ウィキペディアにはデリ鉄道会社のオペレーション閉鎖年が1955?と記され
ている。[ 続く ]