「インドネシア鉄道史(81)」(2025年12月30日)

1942年の日本軍進攻でオランダ東インドは日本の占領軍政下に落ち、すべての鉄道シ
ステムが日本軍の統括下に置かれた。軍政監部内に設けられた陸輸総局がインドネシアの
鉄道システムを掌握し、太平洋戦争の遂行支援を最大目標にして鉄道の管理と運行業務を
行った。陸輸総局鉄道担当部門はバンドゥンのSS本部に入った。

オランダ時代のジャワでは各民営鉄道会社が自分の都合のよい軌道ゲージを使い、自社の
鉄道ターミナルを自己完結的に建設していたため、複数の鉄道会社が乗り入れた町には複
数のターミナル駅が作られた。異なる民営鉄道会社の間で列車が相互乗り入れをすること
は常識から外れたことがらだった。

陸輸総局はそれらの鉄道線路の軌道ゲージを1067ミリに統一するとともに、同じ町に
できた複数のターミナル駅を線路でつないで、ジャワ島内のどこからどこへでもひとつの
列車が走り通せるようにした。

それとは別に、スマトラとジャワで石炭を炭鉱から海軍艦艇泊地および軍港に送るための
鉄道建設が行われ、その新鉄道路線の建設に使うためにジャワ島に敷かれていた線路が大
規模に撤去された。イ_ア語ウィキペディアによれば、日本軍が撤去したオランダ時代の
線路は901KMに上ったとのことだ。その一部を使って日本軍がジャワとスマトラに新た
に建設した鉄路は340KMだけだった。残りはタイ・ビルマに送られたり、あるいはどこ
かの製鉄工場に送られて軍艦や戦車あるいは銃砲になったのではないかとインドネシアで
は考えられている。


1945年8月17日のインドネシア共和国独立宣言によって、インドネシア人は日本軍
政の統治から脱け出す努力を開始した。敗戦した日本が勝利者になった連合国から責務を
与えられていたからだ。旧宗主国のオランダがインドネシア統治のために復帰するまでイ
ンドネシアを被統治状態のまま維持し、復帰を果たしたオランダの統治行政機構に引き渡
せというのがその命令だった。つまり日本によるインドネシアの占領状態を撃ち崩した連
合国は、元の宗主国が統治の座に着くまで占領状態を続けろ、日本降伏以前の状態で凍結
せよと命じたわけだ。まるで植民地主義を絵に描いたような話だ。

独立宣言のユーフォリアの最中にあるインドネシア人と、インドネシアの独立を認めない
とする日本軍政との間で権限移譲に関する交渉と攻防があちこちに起こり、両者の間で戦
闘が行われて死者が出たケースもあった。

9月に入ってから、ジャカルタで鉄道関係者による業務権限奪取の動きが始まった。日常
業務の中で上から降りてくる指示系統の流れの川上から日本人を排除するための実力行使
がそれだ。また鉄道労組の支援を得て鉄道資産の占拠が進められた。9月3日にはジャテ
ィヌガラの鉄道デポやマンガライの修理検車場が日本人立ち入り禁止になった。その動き
の中心を担ったのは鉄道で働く青年たちだった。かれらはAngkatan Moeda Kereta Api鉄
道青年団を組織し、強硬路線を突っ走った。

バンドゥンのAMKAメンバーたちも行動を起こす機会を狙っていた。しかしSS本部の警戒は
厳しく、下手な動きをして潰されては全国各地のAMKAに示しがつかない。そうして194
5年9月28日、かれらはついにそのチャンスを掴み、鉄道技師ジュアンダ・カルタウィ
ジャヤの統率下にSS本部建物を占拠したのである。

占拠者たちは、インドネシアの鉄道が新生独立インドネシア共和国に帰属するものである
ため日本人はもはや鉄道運営システムに関与する立場にないという宣言を行い、建物に掲
げられていた日の丸を降旗させて紅白旗に変え、インドネシアラヤを合唱した。

インドネシア共和国政府はその動きに敏速に反応し、その二日後にはバンドゥンのSS本部
に設けられたインドネシア鉄道システムの運営と管理を行う組織にDjawatan Kereta Api 
Republik Indonesiaインドネシア共和国鉄道局の公式名称を与え、スワヒヨ・スモディロ
ゴを臨時局長に指名して政府部門のひとつに認定した。そして1946年1月23日にジ
ュアンダ技師を初代鉄道局長に任命したのである。ジュアンダはその後中央政府の閣僚畑
を歩んで1957年に第11代目の首相に就任している。[ 続く ]