「バタヴィアのフレンチクオータ(1)」(2026年01月01日)

ヘルマン・ヴィレム・ダンデルス第37代総督の時代、オランダ本国はフランスナポレオ
ン帝国の属領になり、その後フランスに併合されてフランスの一地方になった。オランダ
の植民地だった東インドもフランスの支配下に移され、ジャワ島をイギリスに奪われない
ようにするためにナポレオンの腹心であるオランダ人フランス革命信奉者ダンデルスが総
督として派遣され、フランス帝国軍がジャワ島防衛部隊を統率した。

その時期にバタヴィアに住んだフランス人はほとんどが軍人または軍隊の諸用務に携わる
人々だったようだ。ジャワ島の統治行政はVOC時代以来のオランダ人による執務が続け
られた。フランスからジャワ島にやってきた行政官はダンデルス総督とそのフランス人副
官ら数名くらいだったらしい。フランス人行政官がジャワ島行政システムの中に混じりこ
むようなことは起こらなかった。

イギリス東インド軍の進攻が確実視されていたのだから、フランスの民間人がバタヴィア
に来て住むような状況でなかったのは明白だ。おまけにイギリス海軍船隊がフランスやオ
ランダの船を拿捕しようとして世界の海をパトロールして回り、イギリス東インド会社に
よるジャワ島海上封鎖まで行われていたので、ダンデルス総督の赴任すら大難事になった。
一般のフランス人がビジネスや観光のためにジャワ島へ行けるわけがない。


フランス船の東インドへの来航は1527年のヴェラザヌ船隊によるスマトラ島西岸が事
始めだった。オランダ人よりもずっと早い。ヴェラザヌは元々イタリア人だったがフラン
スに住んで事業を行っていた。マルクにスパイスを仕入れに行くつもりだったにもかかわ
らず、その航海は失敗に終わった。その後フランス人の東インド来航は1602年にフロ
ンソワ・ドゥ ヴィトレがアチェを訪れている。オギュスタン・ドゥ ボリュは1618年
にバンテンを訪れてコショウを大量に持ち帰った。

ジョン・バティスト・ドゥ ギロンは1671年にバンテンに来航し、バンテンのフラン
ス商館長を務めた。その後バンテンのスルタン アグン ティルタヤサと皇太子の紛争で戦
火がバンテン市中を襲い、フランス商館も散々な目にあってギロンは1682年にパリに
帰った。

1653年から1678年までVOC総督を務めたヨアン・マーツァイカーの時代にフラ
ンス人旅行家のジャン・バティスト・タヴェルニエはバタヴィアを訪れてオランダ人の植
民地生活を風刺する文章を書き遺した。

フランス海軍船ウワゾ号とマリネ号の遠征を指揮したキャピテン ショモンを補佐した海
軍士官リューテノン クロード・ドゥ フォルバンも1685年ごろのバタヴィアやマカサ
ルの見聞記を書いた。


宣教師ピエール・プワブルは東アジアでのキリスト教化に携わろうとして1741年に中
国のマカオに赴いた。マカオの教団はかれをコーチシナに送った。コーチシナで東南アジ
アの自然と文化に興味を抱いたかれはドミニコ派やフランシスコ派などさまざまな宣教団
との抗争に加えて地元民のキリスト教排斥などをも体験した。ところがマカオの教団本部
は1743年にかれを呼び戻した。規則違反行為があったということらしい。廣東での仕
事を一年間与えられたあと、1745年1月にピエールは帰国の途に就いた。

マカオを出た4隻の商船団は大砲を備え守備兵も乗船していたが、本格的な軍船を相手に
戦っても勝てる可能性は小さい。オーストリア王位継承戦争に巻き込まれたイギリスとフ
ランスは1744年3月から交戦状態に入っていた。ピエールの乗った商船団がスマトラ
東岸のバンカ海峡を抜けたとき、その向こうにイギリスの大型軍船2隻が砲門を向けて待
ち構えていた。

激しい戦闘が繰り広げられてからフランス商船団は降伏し、バタヴィアに連れて行かれた。
そこは1743〜1750年が在任期間だったフスタフ・ヴィレム・ファン イムホフV
OC第27代総督の統治するバタヴィアだった。ピエールの著述にファン イムホフを賞
賛する言葉はほとんど書かれておらず、暴君の顔がそこに描かれている。ピエールはバタ
ヴィア住民の中にフランス人が百人以上いたことを書き記した。VOC社員になった者以
外に、多数のユグノーが単にバタヴィア市民になるために移住してきていたのだ。[ 続く ]