「バタヴィアのフレンチクオータ(2)」(2026年01月02日) 1760年2月4日、シャルレ・オンリ・デスタンの率いるコントゥデスタン号がスマト ラ島西岸のアイルバギに到着した。コントゥデスタン号は海上ゲリラ船であり、乗船して いるのは義勇兵戦闘部隊150人だ。シャルレはスマトラ島西岸のイギリス軍要塞を総な めにする計画で乗り込んできた。 ヨーロッパ人40人とアジア人60人から成るナタル要塞防衛隊が最初の生贄になった。 北上してタパヌリのイギリス軍基地を攻撃し、ヨーロッパ人24人アラブ人24人バタッ 人2百人から成る防衛軍を粉砕したあと、船は3月4日に出港して13日にパダンに到着 した。ブンクルに設けられたイギリスの牙城マルボロ要塞が次の攻撃目標だった。マルボ ロ要塞はイギリス東インド会社がブンクルに設けた現地支配の本拠であり、その時期2百 人のヨーロッパ人を含む2千人がそこに住んでいた。 パダンのVOC守備隊はデスタン部隊の上陸を見て見ぬふりをして通過させたそうだ。デ スタン部隊は徒歩でパダンからブンクルに行き、マルボロ要塞を包囲すると8百発の砲弾 を浴びせかけた。コショウを積んで港にいたイギリス東インド会社の船も沈めた。敵対し てきたヨーロッパ人はほとんどが捕虜にされた。 それが終わるとデスタン号は最南のクルイにあるイギリス軍要塞を撃滅しに向かった。と ころがいざ着いてみるとクルイの要塞は空っぽで、商品倉庫も焼かれたあとだった。しか たなくデスタン号はまたスマトラ西岸を北上し、1760年5月10日にムコムコのイギ リス軍要塞を攻めた。守備兵40人のムコムコ要塞はひとたまりもなく壊滅した。 デスタン部隊は計画通りスマトラ島西岸のイギリス軍基地を総なめにした上、コショウ5 百トンを戦利品として手に入れた。そのあとデスタン号を修理するために一行は6月から 8月までバタヴィアに滞在した。 バタヴィアでシャルレは、陥落させたスマトラ島西岸のイギリス要塞をオランダ人に売ろ うとしたが、その商談は成立しなかった。しかもその数カ月間にデスタン号部隊の将校の 多数が華人やプリブミとの争闘で死に、あるいは病気のために没した。シャルレにとって バタヴィアは厄病都市だったようだ。 フランス軍人で初の世界周航を行ったルイ・オントゥアン・ドゥ ブゲンヴィルは176 6年12月にブレスト港を出帆して1769年3月にサンマロ港に帰帆した。残念なこと に、かれは初の世界周航を果たしたフランス人になれなかった。それを行った最初のフラ ンス人はマゼランの航海に加わった水夫だったとフランス人が述べているので、間違いあ るまい。ただし名前は残っていない。 むしろ、ドゥ ブゲンヴィルの世界周航に水夫として参加したジャンヌ・バレーがフラン ス人どころか世界最初の女性世界一周者として名を残した。言うまでもなく、ジャンヌは その三年間を男として通した。女であることが判れば即座に監禁され、フランスに戻る船 が見つかり次第引き渡されたことだろう。 ブゲンヴィルの2隻の船隊はマゼランの航路をたどったが、タヒチを出てから風向きのた めに南シナ海に北上するのが困難になり、マルクのセラム島〜ブル島を経て1768年に バタヴィアに入港した。10日ほどの滞在で乗組員が続々と病に倒れたので、一行は追わ れるようにバタヴィアを出帆した。VOCはかれらの滞在に親切を尽くしたのだが、病魔 の尽くす親切からは逃げるしか道がなかった。 1771年4月1日にロリオンを出発し、モーリシャスで船を替えて南への探検航海に向 かったケルゲレンの指揮する2隻の船隊は霧の中で離ればなれになってしまった。行方不 明になったその1隻はサン=アロアルンの指揮するグロヴォントル号で、指揮官はいささ かの迷いも見せずに西に向かい、1772年にオーストラリアの西海岸に到達した。フラ ンスではその新大陸発見がもてはやされたが、イギリス人がそのころ既にオーストラリア 東岸部での植民を始めており、結局その新大陸はフランスのものにならなかった。 サン=アロアルンは新大陸の海岸線を北上して1772年5月3日にティモールに到着し、 およそ2カ月間そこに逗留した。それからグロヴォントル号はバタヴィアに向けて帆を上 げ、16日後にバタヴィア港に入った。バタヴィアでの滞在は三週間で、船は再び航海に 出て祖国フランスを目指した。[ 続く ]