「スカルノのジャカルタ(10)」(2026年01月30日) チキニ地区の南がプガンサアン地区だ。オラニェブルファルはプガンサアン地区の中央を 横切って地区を南北に二分し、その南側の中央付近にスカルノが独立宣言を行った東プガ ンサアン通り56番地Jl Pegangsaan Timur No.56を住所に持つスカルノ邸があった。東 プガンサアンと西プガンサアンの通りはチキニ鉄道駅の東側と西側を南北に走る道路であ り、オランダ時代にPegangsaan Oost、Pegangsaan Westという名称だったが、日本軍政期 にインドネシア語に変えられたようだ。ずっと後になってスカルノ邸のあった東プガンサ アン通りの南部がJl Proklamasiに名を替えている。 プガンサアンという地名は昔その一帯で白鳥が飼育されていたのでangon angsaと呼ばれ ていたのが転じてpegangsaanになったという説があり、またマタラム軍のバタヴィア進攻 で従軍して来たジャワ人青銅鍛冶職人がその一帯に住み着いたためにpegangsanとジャワ 人が述べていた言葉を地元民がpegangsaanに言い換えたのが由来だという説もある。 gangsaはジャワ語でガムラン楽団に使われる青銅音板打楽器の一種を指しており、また青 銅の意味でも使われている。 民族独立運動を抑圧するためにオランダ東インド政庁は1934年にスカルノとハッタを 逮捕してスカルノをエンデに、ハッタをボーフェンディグルに流刑した。その後ハッタは 1936年2月にディグルからバンダネイラに移され、スカルノはエンデから1938年 2月にブンクルに移された。 日本軍のジャワ島進攻を前にして東インド政庁は、日本軍がスカルノを手に入れるのを阻 むためにブンクルにいたスカルノの一家をパダンに移し、そこからオーストラリアに送る 計画を進めていた。しかしオランダ東インド植民地軍はほんの短期間の抵抗戦のあと、予 想外の早さで日本軍に無条件降伏した。だからスカルノはそのときパダンにいたのだ。 インドネシア民族を日本に協力させる手法を検討していた日本政府と軍当局は独立運動最 有力者のスカルノとハッタを抱き込む方針を決めて、かれらを流刑先からジャカルタに戻 した。1942年7月にジャカルタに戻ったスカルノは日本が将来インドネシアの独立を 承認するという約束を得て、インドネシア民族を日本の戦争遂行に協力させることを決意 し、ハッタとふたりで対日協力者の座に着いた。 スカルノは日本軍がパダンからジャカルタに戻したが、ハッタはオランダが先にバンダか らスカブミに戻していた。ジャワ島占領日本軍はまずハッタを解放してジャカルタに連れ て行き、オラニェブルファルの邸宅の一軒に住まわせた。 一方、パダンからジャカルタへのスカルノ一家の移動は想像を絶するものだったそうだ。 日本軍が用意した全長8メートルの発動機船に乗ったスカルノ、妻のインギッ・ガルナシ、 養女カルティカ、下女のリウ、そしてクトゥッサトゥとクトゥッドゥアという名の愛犬2 頭はインド洋の大波に4日間翻弄され続けたあげく、船酔いの果てに4日後やっとパサル イカンの船着き場に到着したのである。 到着した日の夜、スカルノ一家はハッタの邸宅に泊まったと語っている話があり、それと 異なって一家はオテルデザンドHotel Des Indesに宿泊したと書いている記事もある。日 本軍ジャワ軍政監部はスカルノ一家のために住居・自動車・オフィス・スタッフを用意し ていた。日本軍が用意していた住居はメンテン地区オラニェブルファル11番地の二階建 ての邸宅だった。ところがジャカルタに定居したスカルノに面談を求めて訪れる客の数が どんどん増加していったことから、その家の主人夫妻はスペースの広さが不足しているこ とを不満に思うようになった。 そればかりか、二階建ての家の中で階段を一日に何度も上り下りすることをスカルノが愚 痴るようになった。インギッ夫人はその夫の愚痴を回顧談の中で語っている。夫妻はもっ と広い敷地を持つ平屋の大邸宅を希望するようになった。[ 続く ]