「スカルノのジャカルタ(11)」(2026年01月31日)

メンテン31番地の訓練生のひとりで、オルバ時代に総局長を務めた経験を持つハイルル
・バスり少将(退役)の回顧録に、かれが東プガンサアン通り56番地の屋敷をスカルノ
のために見つけた話が出て来る。

スカルノ一家の家を探すよう軍政監部宣伝部幹部シミズ・ヒトシに依頼されたかれは、ス
カルノに希望する条件を尋ねた上で友人のアデル・ソフィヤンと一緒にメンテン地区を自
転車で走り回った。そして広大な庭のある大きな邸宅を東プガンサアン通りで見つけたの
である。広い庭にはパヴィリオンがいくつか建てられていた。かれはスカルノをそこに案
内し、スカルノは大きくうなずいた。大勢の民衆が訪問しに来ても窮屈でないこんな家を
求めていたとスカルノは語ったそうだ。

その家の主人は収容所に抑留されているオランダ人で、その妻がそこに住んでいた。最終
的にその夫人にメンテンのレンバン通りの家に移ってもらい、スカルノの一家がそこに入
ることが行われた。レンバン通りの家と言っているのはオラニェブルファル11番地の家
のことなのだろうか?


インギッ夫人はしばらくその家でスカルノと暮らしてから、すでに決意していた計画を実
行に移した。スカルノよりずっと年上のインギッは子供を欲しがるスカルノに子供を与え
てやれないことを苦にし、ブンクル流刑時代に現地で親しくなった若いファッマワティを
自分の後釜に据えることを計画していた。スカルノはインギッのアレンジに従って離婚し
たあと、ファッマワティを次の妻にした。結婚式はブンクルで行われ、スカルノ本人がブ
ンクルに行けないために代理人を立てての結婚式が挙行された。そしてファッマワティは
ジャカルタに移ってプガンサアン通り56番地の邸宅で新婚生活を開始し、しばらくして
長男のグントゥルが生まれた。

独立宣言式典で国旗掲揚に使う紅白旗がなかったために、その前夜にファッマワティ夫人
が手ずから旗を縫った美談が語られている。


前田少将邸での独立宣言起草会議は17日午前4時ごろ解散し、スカルノは自邸に戻った。
サウルの食事を手早く済ませてから、スカルノは久方ぶりの休息を取った。かれは8月1
6日の後半夜(ミッドナイトから夜明けまでの夜)にレンガスデンクロッに誘拐され、そ
の日の午後ジャカルタに戻ったあとの前半夜(日没からミッドナイトまでの夜)に独立宣
言起草会議が始まったのである。その間ゆっくり体を休めることができず、おまけに断食
月だったからエネルギー補給も不足していた。スカルノは発熱状態で独立を宣言したのだ
った。

17日の夜明け前スブの礼拝のころからすでに、独立宣言が行われるという噂が街中に広
がり始めた。前田少将邸での会議を成功させるためにメンテン31番地の青年たちはその
バックアップに精力を使った。日本軍による妨害行動を懸念したかれらは、竹槍や鉈を手
にした民衆を狩り集めて前田邸の外周の警戒に当たったという話が語られている。そして
邸内の会議が解散すると、青年たちは17日午前10時独立宣言式典開催のニュースを携
えて未明のジャカルタの街に散って行った。

その噂を聞いたのだろう、東プガンサアン通り56番地の屋敷に大勢の男たちが竹槍、棍
棒、刀、鉈、スコップなどを手にして集まって来た。かれらは単なる民衆のひとりひとり
に過ぎないが、インドネシアの独立宣言を妨害しに来る者に対して身をもって防壁になろ
うという気概を抱いたひとびとだった。[ 続く ]