「労働蔑視(8)」(2026年03月08日) 労働を意味するフランス語はtravailだ。トラヴァイユという言葉はラテン語に由来して おり、その語源は「拷問」を意味していたそうだ。一神教の教義の中に労働懲罰説という ものがある。 アダムとエヴァはエデンの園で極楽の暮らしをしており、そこでは働く必要などいっさい なかったのだが、神の命に背いて禁断の木の実を食べたために、人類の祖先となるふたり は神の怒りに触れてエデンの園から追放された、と旧約聖書の創世記は失楽園を物語る。 神は女に「孕みの苦しみ」、男には「額に汗してパンを得る苦しみ」を与えたと話は続く。 だから労働とは、罰として人間が神から与えられた苦行だと言うのである。 信仰というものに縛られたマジョリティ弱者に対して労働の意味にひとつの方向性を持た せようとしたこの説は、長い歴史の中で十分に目的を達したようだ。一神教の信徒にとっ て労働とはしょせん、必要悪なのである。 イスラム教にはまた別の要素が見られる。イスラム教を生んだ風土にあったのは遊牧文化 だった。アラブのことわざの中に「強者が遊牧し、弱者が耕す」というものがある。遊牧 という活動は本質的に財産の監視であって、生産活動の意味合いはそれほど強くない。遊 牧活動は労働という語義と一味も二味も違っているのである。弱者が行なう「耕す」とい う活動のほうがはるかに労働の語義に密着している。 遊牧民のなりわいが家畜と掠奪の二頭立てであったことは、今や世界の常識になっている だろう。モンゴルにしろ匈奴にしろ、かつての遊牧民の生活を総合的に描いた解説であれ ば、掠奪の話は必ず物語られたはずだ。 かれらの遊牧文化の中で、掠奪は悪業でも犯罪でもなかった。それは強い者が行なうなり わいのひとつなのであり、その掠奪の対象になるのが定住して耕作している弱い者たちだ った。現代的な解釈はそれを労働成果の収奪という言葉で説明するにちがいない。 現代の価値観でその構図を、遊牧民は極悪人であり、真面目に耕作して収穫を得ている定 住者が可哀想だなどと考えるのはアナクロニズムだとわたしは考えている。過去の人類世 界で労働成果の収奪は当たり前のことだったのである。そのために人間は強くなって収奪 者になろうと自らを鍛え、闘争を繰り返して支配者になり、弱者を虐げる権利を持つこと が人類の常識になっていたのだ。それは労働しないで生活できる存在になることを意味し ていた。定住社会で一年中収奪を行なう支配者の方が、収穫時にだけやってきて収奪する 遊牧民よりも悪質だったと言えないだろうか? 一神教の神がそう定義付けたかどうかは別の問題として、労働とはあくまでも被支配者が 行なうものであり、支配者は被支配者の汗の結晶を享受するものであるという構図は何千 年も前から現在にいたるまで連綿と続けられている人類の生存原理である、と言えば言い 過ぎになるだろうか?古代のギリシャ・ローマにおいても、市民と呼ばれた支配者たちが 被征服民や奴隷の労働の上に自分たちの生活を成り立たせていたのではなかったか。労働 とは下賤の奴隷が行なうものという原理を人類の歴史が物語っているではないか。 日本とて例外ではなかったはずだ。王宮に集う皇族貴族の中に、あるいは後世の武士階級 の中に、労働を行って何かを生産することを本業にする者はいなかった。よしんば武士階 級の中に、食っていくために百姓仕事をせざるを得ないひとびとがあったとしても、かれ らは生産のための労働をしたがためにかえって軽んじられ、侮蔑された。それが支配者の するべきことではなかったからだ。日本の昔話に「人買い」という言葉が出て来る事実が、 日本に奴隷制度が存在していたことを明示している。[ 続く ]