「ジャワの大砲(3)」(2026年03月13日) 自らマジャパヒッと名付けてラデン ウィジャヤが本拠地にした土地はブランタス川の南 岸にあった。ブランタス川を内陸部目指して遡行すればクディリに達することができる。 元軍へのアプローチに成功したラデンウィジャヤは、元軍をシガサリでなくクディリに向 かわせた。 ところが元軍を手引きしているラデン ウィジャヤを討ち取ろうとしてクディリ軍がマジ ャパヒッに進出して来たため、ラデン ウィジャヤは元軍をマジャパヒッに呼び戻した。 クディリ軍との対戦は元軍も望むところだ。 4月15日、クディリ軍が三方からマジャパヒッを包囲して攻撃を開始したところ、元軍 がその前に立ちふさがった。高興の率いる軍勢がマジャパヒッの東南で激戦を展開し、ク ディリ軍は押されて高台に後退した。元軍はそれを追撃してその日夕方、東南戦線のクデ ィリ軍を撃滅した。 4月22日、元とラデン ウィジャヤの連合軍がクディリの街を目指して出発した。全軍 が三分されて三つの異なるルートからクディリに向かう。クディリの王都に対する総攻撃 は26日に行われることになり、[火包pao]の発射を合図にして三方からなだれ込む作戦 が合意された。水上部隊がブランタス川を遡行し、亦黒迷失の率いる軍勢が川の東側、高 興の軍勢が川の西側を進んだ。ラデン ウィジャヤの軍勢は元軍の最後尾に付いた。 26日午前6時からクディリの町に対する攻撃が開始され、3回行われた総攻撃によって クディリ防衛軍は5千人の戦力を失い、残った兵士らが逃亡を始めた。それを追った元軍 は多数のクディリ兵を川に溺れさせた。 侵攻軍はクディリの町を完全に包囲してジャヤカッワンに降伏を呼びかけた。夕方になっ て戦いを諦めたジャヤカッワンが投降した。元軍がクディリの町で掠奪した戦利品は5千 万元にのぼったそうだ。戦争はこうして終了した。 ラデン ウィジャヤは三人の元軍司令官に、皇帝への貢納品を用意するのでマジャパヒッ に戻るが、元軍の一部の部隊も一緒に来てほしいと誘った。史弼と亦黒迷失は簡単に同意 したにもかかわらず高興は不審を抱いたようだ。最終的に高興も同意したが、同行する部 隊の指揮官に警戒するよう命じた。 クディリに人質として捕らえられていた妻子をマジャパヒッに連れ帰るに際してラデン ウィジャヤは同行する元軍部隊に、妻は武器をたいへん怖がるので武器を持たないでほし いと依頼した。そうして丸腰になったその元軍部隊はウォノクロモで血祭りにあげられる 運命をたどったのである。 さらに間を置かず、マジャパヒッ軍が元軍キャンプに襲い掛かった。勝ち戦を祝って勝利 の酒に酔っている元軍兵士を処刑するのにたいした困難はなかった。万一を慮って多数の マドゥラ兵がラデン ウィジャヤの作戦に加わっていたそうだ。キャンプは屠殺場と化し て元軍部隊は大混乱に陥った。指揮系統が崩壊したために元軍兵士は元の軍船を目指して 海岸へ逃げた。そんな戦闘談が多々書かれている。 元軍は中国へ引き揚げるに際してスラバヤに監禁していたジャヤカッワンを処刑したが、 王子やクディリの高官など百人を超えるジャワ人を中国に連れ帰った。元の軍船団は5月 31日にジャワ島から出帆し、68日かけて泉州港に帰着することができた。ラデン ウ ィジャヤの軍勢は海上でも元軍を襲い、たくさんの船が破壊されて沈没し、あるいは拿捕 された。元の軍勢は少なく見て1万2千人、多くて1万8千人が殺され、また多数の捕虜 を出したとされている。 帰国した司令官三人のうちの史弼と亦黒迷失は皇帝の怒りを受けて鞭打ちと財産一部没収 の刑を受けた。高興は反対に褒賞を与えられている。そのあとしばらくしてクビライ汗は 史弼と亦黒迷失を赦し、名誉と没収した財産を回復させた。 クビライ汗は第二次ジャワ島遠征を命じ、軍勢を10万人に増やして必勝の意欲を示した ものの、時がその実現を阻んだ。クビライ汗は1294年に世を去ったのである。ラデン ウィジャヤが1293年に建国したマジャパヒッ王国は元軍の再襲来から免れたように思 われるのだが、イブン・バトゥタやポルデノーネのオドリコが書き遺した伝聞記録には、 ジャワ島への元軍侵攻は数回行われたと記されている。ただし、元軍の勝利は一度もなか ったそうだ。[ 続く ]