「ジャワの大砲(2)」(2026年03月12日) 1293年1月22日に元の軍船団は泉州港を出帆し、海岸沿いにベトナム東部を南下し てジャワ島に向かった。その途中にあるマラヤとスマトラの諸王国は侵攻軍が送った使者 に対して元への服属を表明したという解説が見られるのに混じって、チャンパに立ち寄っ て船の補修と補給を行おうとしていた船団はチャンパ王の非友好的な態度に遭遇したとい う話もあった。 元の大船団が何をしにどこへ向かっているのかを知ったチャンパ王ジャヤシムワルマン3 世は船団の寄港を拒否し、ジャワ島侵攻をやめてすぐにチャンパの領海から去るように命 じたという話もある。チャンパが南洋島嶼部という空間に属していてインドシナ亜大陸に とっては異分子であったというのはよく知られている説だ。 船団は仕方なく補修と補給を諦めて航海を続け、ナトゥナ海域に入った。船団はカリマタ 海峡を扼するスルトゥ島に立ち寄っている。その事実は1293年2月25日の日付の記 された中国語の碑文がスルトゥ島に今も遺されていることが物語っている。船団はまた、 カリマンタン島南西端にあるグラム島やその他の島々にも停泊した。船団がジャワ島に向 けて出発するとき、百人を超える元軍兵士がグラム島に残ったそうだ。帰国ルートの安全 を確保するためだったのだろうか?ところがジャワ島から脱出した元の軍船団はグラム島 に立ち寄らず、結局かれらは土着化せざるを得なくなった。 もしもその血統がいまだに続いていたとしても、今現在生きている子孫は自分が華人の血 統を持っていることなど知らないだろう。祖先に華人の血が混じったからインドネシアに いる華人のひとりだ、というような思考に何の意味があるのだろうか。 そのあと船団は1293年3月13日にカリムンジャワ島に到着した。グラム島とカリム ンジャワ島は3百数十キロしか離れていない。おまけに元軍がトゥバンに上陸したのは1 293年3月22日であり、カリムンジャワからトゥバンまでは2百キロ強の距離しかな い。6百キロ足らずの海上を25日もかけて元軍船団が進んだのはなぜなのかという疑問 がそこに生じる。 シガサリは内陸部にあり、昔の陸上輸送は河川を利用するのが常道になっていた。元軍は ジャワ島侵攻作戦を実施するに当たって河川輸送を行うための小舟を必要としていたため にジャワ島に近いそれらの島々で元軍は小舟を作っていたという解釈がその25日という 謎の答えになっている。 ジャワ島侵攻軍の三人の司令官はその間、カリムンジャワで作戦を練った。シガサリに向 かう上陸地点としてトゥバンとスダユが選ばれた。トゥバン上陸軍は陸上進攻軍と川を遡 行する軍勢に二分してシガサリに向かい、シガサリの手前でスダユ上陸軍と合流してから シガサリの王都クタラジャを陥落させるというのが作戦の大筋だ。 3月22日にアディパティ領トゥバンの首府である港町トゥバンへの上陸作戦が展開され て、アディパティの軍勢は簡単に一掃され、廃墟になったトゥバンの街を元の軍勢が掠奪 した。その戦闘で、歴史開闢以来はじめてインドネシア人が火器というものによる攻撃を 体験したのである。その兵器の音と光と攻撃力にトゥバンの軍勢は怖れ慄いたと語り伝え られている。その新兵器の噂はすぐにジャワ島内に広がって行った。 元軍は作戦通りトゥバンから陸上を進軍する軍勢と川を遡行する軍勢に別れてシガサリを 目指した。一方、史弼に率いられたスダユ上陸軍もあっさりとスダユを陥落させてブラン タス川支流のカリマスをシガサリに向かって遡行した。その途上で元軍はスラバヤを陥落 させたようだ。それら制圧したエリアには元軍の守備隊が残されたはずだから、動員され た全戦力で最後の戦闘まで行われたとは考えにくい。[ 続く ]