「スカルノのジャカルタ(52)」(2026年03月13日)

1949年の年末にヨグヤカルタからジャカルタに戻って来たスカルノ大統領一家はクマ
ヨラン空港からコニングスプレイン北側のオランダ東インド総督宮殿に直行し、その日か
らそこを一家の居所にした。スカルノ一行が空港から宮殿へ車で移動する間だけでなく、
宮殿に入ったあとも民衆の叫ぶムルデカの声がジャカルタの空にこだまし続けた。

宮殿の庭だけでは収まりきらず宮殿の表テラスの上にまであふれた群衆のムルデカの声が
いつまでたっても鳴りやまないため、スカルノはテラスに出てきて歓びのスピーチを行い、
今からこの宮殿をムルデカ宮殿と呼び、表の広場をムルデカ広場という名にすると表明し
た。スカルノはその時にムルデカ宮殿をインドネシア共和国公式大統領宮殿にし、ムルデ
カ広場を国家最高の儀典プラザに位置付けたように思われる。

しかしそのときの宮殿表のコニングスプレインはただの広場でなく、オランダ時代に建て
られたアミューズメントパークやジャカルタ警察本部、電話局、競馬場や各種運動施設な
どが1キロ四方という広い地所を埋めていたのである。


オランダ時代の東インド最高儀典プラザはヴァーテルロープレインだった。ダンデルスの
ヴェルテフレーデン設計プランに従って、総督庁として使う意図で建てられたホワイトハ
ウス(現在の財務省建物)の表に設けられた5.2Haのプラザがヴァーテルロープレイン
だ。1949年まで東インド政庁はあらゆる公式セレモニーをそこで行ってきたし、日本
軍政期にも日本軍は大祝賀会や大集会をそこで催している。その伝統的なあり方を引き継
ぐ意思をスカルノは持っていなかったとしか思えない。

植民地時代に、ヴァーテルロープレインには夕方になるとバタヴィアのオランダ人市民が
遠くからも馬や馬車で集まって来て、野外社交場の機能を果たすようになった。スポーツ
好きの青年男女もやってきて運動したり球技を行ったりし、特に女子チームによる球技対
抗戦が行われると運動着に身を包んだ娘たちの姿を見るために男ばかりの見物人が密集し
た人垣を作ったと語られている。日曜日には軍楽隊が定時に演奏会を開いていた。

ダンデルスはそのプラザをParadeplaatsと呼び、毎週日曜日にそこで軍楽隊を伴う軍隊の
パレードを行わせた。ナポレオンの腹心だったダンデルスが作った儀典プラザにナポレオ
ンの敗戦を記念する名前が付けられようとは、ご本人は夢にも思っていなかったのではあ
るまいか。このプラザの中央にライオンを飾った塔が建てられたので、プリブミはそこを
Lapangan Singaと呼んでいた。ライオンの塔は日本軍政期に破壊されて無くなり、インド
ネシアの完全独立後スカルノはLapangan Bantengという名称をそのプラザに与えた。

1963年にスカルノはバンテン広場の中央にイリアン解放を記念する像を建てた。イン
ドネシアの完全主権を認める一方であくまでもインドネシアに渡そうとしなかったパプア
島をオランダの手から取り戻すためにスカルノはオランダに宣戦布告し、その問題を国際
政治の舞台に投げ込んだ。そこでもスカルノが勝利し、イリアンは1963年5月1日に
インドネシア共和国の正式領土になったのである。オランダ王国は唯一残されたアジアの
植民地さえ失ってしまった。

スカルノという人物の性格をオランダ人は読み切れていなかったようだ。オランダのコモ
ンウエルスに組み込まれるインドネシア連邦共和国という構想すら瞬く間にひっくり返さ
れてしまったオランダ人植民地主義者はインドネシアに独立を与えたことを深く切実に悔
やんだにちがいあるまい。しかし時代の趨勢が素朴で露骨な植民地主義を歴史の過去へと
追いやったのであり、それが見えていたオランダ人はきっと違う思いを抱いたように思わ
れる。ネオコロニアリズムへの変身は必然的な帰結だったはずだ。

オランダ東インドの全域からオランダ人を全面的に追放したスカルノはイリアン闘争の勝
利を祝ってオランダ時代の最高儀典プラザにイリアン解放の記念碑を建てたのである。ス
カルノがそこを建立場所に選択したのはなぜだったのか。スカルノの意中が何となく推察
できるのではあるまいか。

その後1967年から1981年までバンテン広場にはバスターミナルが設けられている。
インドネシア共和国になってから、その広場では公的祝祭がまったく催されなくなった。
スカルノがその機能をムルデカ広場に移したのだから。[ 続く ]