「スカルノのジャカルタ(51)」(2026年03月12日) そんな状況下に国連がマレーシア連邦を1965年1月から安全保障理事会の非常任理事 国に就任させたことがスカルノを激怒させた。スカルノは国連のその決定を拒否し、19 65年1月20日に国連を脱退して第三勢力によるもうひとつの国連結成の道に邁進した。 既存の国連に対抗する別の国連、それがコネフォの新しい役割になった。コネフォの位置 付けは最初、米国主導の国連内における一勢力グループでしかなかったというのに、ここ にきて既存の国連に対抗する国際組織に跳ね上がったのである。 コネフォという組織自体は1965年1月7日にインドネシア・中華人民共和国・ヴェト ナム民主共和国・朝鮮民主主義人民共和国・アラブ連合共和国を中核にし、その他にユー ゴスラビア・キューバ・パレスチナなどのオブザーバー国を加えた国際組織として公式に 発足している。 コネフォを盛り立てようとした諸国がどんな立場に立っていたかを見れば、当時の国連が 何であったかということが見えてくるだろう。そのポイントはスカルノの目に鮮明に映っ ていたはずだ。 バンドゥンで1955年に開催されたアジアアフリカ会議の第二幕をコネフォ国際大会議 としてジャカルタで開く計画を立てたスカルノは、会議場をジャカルタに建設することを 決めた。最初は会議場のつもりだっただろうが、コネフォをもうひとつの国連にすること になったとき、それはもうひとつの国連ビルという位置付けに変化したはずだ。 場所はスナヤンスポーツコンプレックスの北側60Haの土地であり、そこはグロラブンカ ルノ用地手配の際に同時に収用されたにもかかわらずスポーツコンプレックス建設の中で その区画は放置されていたように見える。第4回アジア大会の準備の中にスカルノはコネ フォの計画をも混ぜ込んで進めていたのだろうか? 中国からの資金援助を得てスユディ・ウィルヨアッモジョのデザインしたダブルドームの 会議場本館の建設工事が1965年3月8日に開始された。1955年のアジアアフリカ 会議十周年を記念して1965年4月19日に開始されたと語っている記事もある。 しかしいずれにせよ、スカルノの政治生命はその年の9月30日に崩壊が始まったのであ る。国連としてのコネフォはもとより、コネフォ大会議すら実現する日は来なかった。バ ンドゥンで1955年に行われて大成功を博したアジアアフリカ会議の第二幕はこうして 寂しくその幕を閉じた。 世界統制のハンドルを握っていた諸国にとって、スカルノはかれらの世界秩序を騒がせ脅 かす邪魔者でしかなかった。とりわけ、何百年にもわたって血と汗を流して世界の統制権 を手に入れた国々に対抗して乗り出して来たイデオロギーを異にする世界統制者側の一員 にハンドルを掠め取られては、せっかく築いた国富のストックを紙屑にされる恐れもある。 スカルノというお騒がせ者を闇の中に封じ込める決定的方策を描くシナリオが作られてC IAが動き、世界最大の勢力を誇ったインドネシア共産党と共にスカルノの政治生命も滅 びの坂を転げ落ちて行った。 インドネシアのスカルノレジームを終焉させて第二代大統領になったスハルト将軍は西洋 エスタブリッシュメント諸国が操縦する世界秩序に向けて、跳ね上がり国家インドネシア の動きを修正していった。大統領代行のスハルト将軍は1966年8月11日にコネフォ の解散を宣言して、インドネシアを危険な諸国から切り離した。そのときにコネフォは地 上から消滅した。 さらにスハルトは1966年9月28日にインドネシアを国連加盟国に復帰させた。野牛 だったインドネシアは世界秩序統制ツールに平伏したのである。 しかし既に建設が始まっていたコネフォ大会議場はG30S事件のために工事の中断を余 儀なくされた。1966年になって、11月9日の内閣最高会議でそこを国民評議会兼国 会議事堂にすることが決まり、建設工事の再開が命じられた。それ以来、施設建設が続け られてインドネシア共和国国民評議会兼国会議事堂として完成し、1983年2月1日に スハルト大統領がオープニングを宣したのである。[ 続く ]