「ジャワの大砲(5)」(2026年03月15日) ラデン ウィジャヤの興したマジャパヒッ王国は元軍がもたらした新兵器を王国軍の基本 装備のひとつにした。ジャワ人はその兵器をチュッバンcetbangと呼んだ。多分中国語の chongtong(銃筒)に由来したのではないかと推測されている。ジャワ語ではブディルbedil あるいはワラストゥラwarastraという言葉が古文書に書かれているそうだ。 ジャワ文化の中で生まれたその物品をジャワ人がチュッバンと呼んだのであれば、つまり はその発音がオリジナルだったように推測される。その発音がアルファベット表記されて cetbangと書かれ、インドネシア語の中で/e/が強母音で読まれたためにインドネシア語で は現在チェッバンと発音されている。 つまり語源的に見るならこの兵器の名称は元々チュッバンだったと考えられるのだが、本 論ではジャワの固有名詞のほとんどをインドネシア語発音で書いているので、チェッバン を使うことにする。この問題については、どちらが正しいなどという思考方法はナンセン スだろうと思われる。 チェッバンをマジャパヒッ王国の軍制の中に定めたのはガジャ マダだったという説もあ る。1290年ごろジャワ島東部地方の村長の家に生まれたガジャ マダは幼少期に養育 係の教導の下で育てられた。ガジャ マダの養育係を務めた男は元軍の脱走兵だった。 ガジャ マダ少年は格闘と戦闘の技術ばかりか、元軍の使った火器についても養育係から 多くを学んだ。「この兵器をヌサンタラで使いやすいものに改良し、自分の指揮する軍隊 を最強のものにしてみせるぞ。」少年は自分の未来への夢を心の中に描いた。 その養育係に鍛えられたガジャ マダは片手で野牛の首をへし折るまでの力と技術を体得 した。成人したガジャ マダはマジャパヒッの王都に上り、ジャヤヌガラ王の衛兵隊指揮 官のひとりになった。 ガジャという言葉はガジャ マダの個人名の一部でなく、マジャパヒッ高官のランクある いは職務を表すものだったという解説が見られる。特に軍務の中での階級のような印象が あり、クボやバンテンといった力強さを持つ動物の名称がかれらのランクを示していたの かもしれない。 ガジャ マダは王宮の最高位階であるマハパティの地位に昇りつめた。マジャパヒッ軍の 司令官を兼ねるガジャ マダはチェッバンを使ってラ クティの反乱を鎮圧し、更に改良を 重ねてンプ ナラが率いるマジャパヒッ海軍軍船隊の標準装備にした。さまざまな記事の 中には、マジャパヒッ軍はチェッバンを軍船の筆頭攻撃兵器にし、陸上戦闘で使うことを 禁止したという話も見られる。 チェッバンで人間を撃つと人間の身体がバラバラに飛散し、あまりにも悲惨な死にざまに なるために非人道的だという見地から敵の軍船攻撃用に限定して使われたのが陸上戦での 使用禁止の理由だったのではないかと推測している解説が見られる。 「人間が死ぬとき、どんな死にざまもあったものではない」という見解もあるだろうが、 それは死を忌み、死と向き合うことを怖れ嫌うようになった現代人類のものの見方に発し たものではないかという気がわたしにはする。 死が常に人間の身近にあった時代の社会で、おまけに死を背中に背負って毎日を生きてい た者たちにとって、死にざまというのは生きざまの一部に包含されていたのではないだろ うか。「武士道とは死ぬこと」という発想はそこにつながっているに違いあるまい。自分 の生きざまの一部だからこそ、死の美学が生まれたという気がする。 ガジャ マダがパラパの誓いを立ててヌサンタラ統一に乗り出したとき、マジャパヒッ軍 船団の運ぶ軍勢に立ち向かおうとするヌサンタラの王国はなく、海上からその王国の空に 向けてチェッバンを撃てばその王国の支配者は自分から玉座を降りて膝を屈したと語られ ている。 おまけに航行する商船を襲い手薄な港に乗り込んで掠奪する海賊たちをマジャパヒッの支 配下におくために海賊討伐戦が行われ、チェッバンの水平射撃を受けた海賊船は燃え上が って沈没した。こうしてヌサンタラの海と島々はマジャパヒッ王国のヘゲモニーの下にパ ックスマジャパヒッの平和と安寧を謳歌するようになったというストーリーがヌサンタラ を統一したマジャパヒッの歴史の一幕に描かれている。[ 続く ]