「ジャワの大砲(6)」(2026年03月16日)

マジャパヒッ王国の時代にジャワ島に定着したチェッバンは、元軍が装備していた手持ち
式のものがメインを占めたような印象を与える話も書かれていれば、小型の据付式大砲と
して海戦や攻城戦で活躍したようなストーリーも見られる。

マジャパヒッ軍のチェッバンはボジョヌゴロの鋳物師たちが製造し、火薬はラモガンで作
られた。砲はたいていが青銅製のもので、先込め式の構造になっていた。込められたのは
矢や金属玉だったが、共燃弾も使われた。金属や陶器の破片あるいは小石などと火薬を混
ぜたものが共燃弾だ。矢は火薬や発火物を伴わないものだったが、船に装備されたチェッ
バンは火矢を放って敵船に火をかける戦法も使ったようだ。

チェッバンの最後尾部にある膨らんだ部分の近くに燃焼室が設けられていて、そこに火薬
が詰められた。meriam galahあるいはbedil tombakと呼ばれるものは最後尾が筒型になっ
ていて、そこに木の棒の端を差し込んで射撃した。また台座に固定されたものも作られた。
ということは日本で言う手持ちタイプの大筒と並行して、似たような仕組みでもっと大型
の大砲も作られていたということになるのだろうか?


初期のチェッバンは弾丸を砲口から挿入する先込め式のものだったが、1460年ごろに
トルコ軍の旋回砲がヌサンタラに伝わって元込め式への改良が行われると同時に砲座に置
く使用法も模倣された。弾丸は金属球や散弾が主体になり、共燃弾をマガジンに入れて射
撃するものまで作られて、多数のマガジンを手早く入れ替える方法で連続射撃が行えるよ
うになった。

ジャワで作られた旋回砲は銃身が60〜220センチ、口径22〜70ミリで、素材には
青銅や鉄が使われ、軽量で移動が容易に行え、ひとりの射撃手が一丁を取り扱ったと解説
されている。ただし発射時の反動がたいへん大きかったので、バズーカ砲のような射撃姿
勢を執ると肩の骨が砕けたそうだ。

砲座は天体望遠鏡の架台のような旋回式になっていて、砲座の軸が船や要塞の壁に固定さ
れ、砲に取り付けられた木のハンドルを使って標的を狙った。大型の砲は砲車に据え付け
られた。


銃火器はマジャパヒッ王国の時代以降、ヌサンタラの重要兵器のひとつになり、諸王国間
の戦争で使われたと思われるのだが、インドネシアで昔から作られている王国時代を描い
た映画の中の戦争シーンに銃火器がまったく登場しないのは実に不思議な現象と言わねば
なるまい。

マジャパヒッが衰退してヒンドゥ=ブッダ時代からイスラム時代に移行し始めたころ、ジ
ャワの銃火器製造者たちはマジャパヒッの先行きを悲観して故郷を去り、東部ヌサンタラ
やフィリピンあるいはマラヤ半島に移住してチェッバンを域内に広めたという話が語られ
ている。

それがジャワのチェッバンの未来を儚いものにしてジャワ島のチェッバンの時代を終焉さ
せたと語っている論もあるのだが、ポルトガル人の持ってきた大砲に勝てないチェッバン
は西洋式大砲への転換を余儀なくされ、それがチェッバンの隆盛を黄昏に導いた主要因だ
ったのではないかという気がわたしにはする。

大型小型の砲ばかりか、ポルトガル人が歩兵戦の主力として使ったマスケット銃もヌサン
タラの各地で作られるようになった。ジャワ人はジャワで作られた火縄銃をistinggarと
呼んだ。トメ・ピレスが1513年に書いたジャワ島の状況の中に、バタラヴォジャヤ王
の腹心であるグスティパティの軍勢は2万人おり、騎兵2千人・銃兵4千人がそこに含ま
れているという情報が見られる。

1514年にドゥアルテ・バルボサは、ジャワの住民は銃火器作りが巧みでまた優れた射
手でもあり、1ポンド砲や長身銃、火縄銃、大筒、ギリシア火、大砲、その他の火器類を
大量に作っているし、製造工房もよくできていてその使い方も優れていたと書いて絶賛し
ている。

1856年6月にロンボッ島を訪れたアルフレッド・ラッセル・ウォレスは地元貴族の家
を訪問した時に現地製の銃を見せられた。それは一見してイギリスのマスケット銃のよう
に見えたが、銃身にライフリングが施されているのを知り、その作業方法を教えられて感
心した話を自著The Malay Archipelagoの中に書いている。[ 続く ]