「ジャワの大砲(11)」(2026年03月21日)

スルタン アグンの遺産である西洋型大砲9門の中には1625年に作られたPoncowuro別
名Guntur Geni、そしてその他にKiai Kadhal Buntung、Kiai Kumborowo、Kiai Pamotなど
もある。ソロの郷土史研究家はそれらのすべてがポルトガル製であると語っている。たと
えVOCから手に入れたとしても、それがオランダ製であるとは限らないということがシ 
ジャグルの例から判るだろう。

われわれが勘違いしてならないのは、戦争に明け暮れたスルタン アグンの時代にそれら
の大砲は実用品としてマタラム王国が入手したということではあるまいか。置物やオーナ
メントあるいは資産として手に入れた物ではないということだ。戦争に使えない大砲をプ
レゼントされてもスルタン アグンは喜ばなかっただろう。だからきっと、スルタン アグ
ンの遺産はひとつの例外もなく実践経験を持っているのではないかと推察される。


1741年8月1日、カピタン スパンジャンに率いられた華人部隊がカルタスラに到着
した。バタヴィアから転戦してきたこの部隊は地元の華人部隊と合流してカルタスラ王宮
に伺候し、スルタン パクブウォノ2世に忠誠を誓った。カルタスラのVOC要塞攻撃を
カルタスラ軍と合同で8月5日に行うことが合意され、カルタスラの大砲クンバラワ、ク
ンバラウィ、グントゥルグニの3門がカピタン スパンジャンの指揮下に置かれた。ジャ
ワ人砲兵の指導下にバタヴィア華人部隊が大砲を操作することになったのだ。

だが戦闘中にグントゥルグニは自爆を起こしてしまった。ジャワ軍砲兵が火薬を入れすぎ
るなと注意したにもかかわらず、俄か砲兵になった華人兵がその禁を冒したためだ。おか
げで華人兵12人とジャワ人砲兵がブリンギンの木の上に吹き飛ばされてしまった。

攻撃軍は砲撃戦をやめて塹壕をVOC要塞の近くまで掘り進んだから、VOC側の大砲も
役に立たなくなった。要塞司令官ファン フェルセンはスルタンに手紙を送り、要塞を明
け渡してスマランへ撤退するので、要塞を出る際の安全を確保してほしいと要請した。ス
ルタンはそれを拒否して司令官ファン フェルセンに「降伏してイスラム教徒になれ」と
要求し、要塞への攻撃を続行させた。翌日になって要塞司令官は降伏し、ジャワ=華人連
合軍は勝利を収めた。


1719年のVOCの報告書にバタヴィア在住華人は7,550人と記録されていた。と
ころがその後華人移住者が急増したために神経をとがらせるようになったVOCは、在留
許可の交付を絞ったというのに何の効果も得られなかった。その対策は許可証を持たない
不法在留者を増やしただけのことだったのである。

人口の急増によって職に就けない者が巷にあふれ、社会の貧困化と犯罪の増加が顕著にな
った。VOCバタヴィア政庁は強硬姿勢でその対応に臨んだ。無職の者・官憲に反抗する
者は捕らえてセイロンに送り、セイロンのVOCの下で働かせる方針が決まった。

1739年の在バタヴィア華人人口は10,574人になっていた。1740年2月、華
人に対する検問が始まった。華人は取り調べを受け、不法在留者が逮捕されるようになっ
た。タンジュンプリオッとブカシで華人が百人ほど逮捕された。不法在留者だけでなく無
職の在留許可保持者も逮捕されるようになった。華人の間に武器の携帯が広がった。

カピタン スパンジャンは風雲急を告げるバタヴィアの華人社会に忽然と出現した男だ。
VOCの記録にケ パンジャンあるいはタイ・ワンスイと記されている人物だが、それ以
前のかれの履歴はほとんど知られていない。

1740年9月、およそ1千人の華人がガンダリア製糖工場でカピタン スパンジャンの
下に集まった。かれらはVOCへの不服従と反抗を言い交した。

10月5日、ファン イムホフとアールデンが話し合いを行おうとしてタナアバンへスパ
ンジャンを訪ねたが、スパンジャンは面会を拒否した。

10月7日、華人戦闘部隊がメステルコルネリスとデクアルのVOCポストを攻撃し、ま
たクダウンへ向かっていたVOC部隊も襲撃されて、その日16人の死者が出た。

10月8日朝、VOCは華人社会に向けて広報を発出した。女性を連れてバタヴィアを離
れてはならない。武器の引き渡し命令に従わず抵抗する者は射殺する。18時半から外出
を禁止し、夜間に灯りを点けてはならない。[ 続く ]