「ジャワの大砲(13)」(2026年03月23日) 1511年8月10日にポルトガル人がマラカスルタン国を滅ぼしてマラカの港市を奪っ たニュースは瞬く間にヌサンタラの各地に広がった。ヌサンタラで勢力を広げつつあった イスラム社会の指導層はその事件に強い怖れを抱いた。イベリア人の反イスラム戦争の刃 先が自分の胸に突き付けられたような印象をかれらは抱いたにちがいない。 そしてその事態を何とかしようと考える男が現れた。ドゥマッ領クドゥスのアディパティ であるAbdul Qodir、別名Yat Sunだ。この23歳の青年は西洋人のヌサンタラ征服行動に 立ちふさがる防壁になることをその時に誓った。かれは人間がなすべきことと人間がなし たいことの違いを整然と区別する術を心得ている男だった。 マジャパヒッ王国のアディパティ領のひとつであるドゥマッがラデンパタの統治下にマジ ャパヒッの支配に反抗して戦争し、それに勝利して独立国を宣言したのは1478年であ り、クドゥスはその初期からドゥマッに帰属していた。ラデンパタのイスラム式統治の中 身を埋めていたのがクドゥスをはじめとする近隣諸地域のイスラム社会を基盤に持つ指導 階層だったのである。ドゥマッはチルボンに続くジャワ島のイスラム式統治社会を作り出 したのだ。 ドゥマッが独立王国になったことでクドゥスはアディパティ領に昇格し、ラデンパタの息 子で皇太子でもあるアブドゥル・コディルがその領主になった。この領主は後に父親の後 を継いで1518年にドゥマッの第二代スルタンになり、1521年に世を去った。 クドゥスはムリア山の南麓に位置しており、海を持っていないために海に関わる産業がな く、造船などとはまったく無縁の土地だった。アブドゥル・コディルの意識に宿ったマラ カ進攻を船なしで行うのは不可能だ。マラカのポルトガル人を全滅させてそこをイスラム 港市に戻すというかれの構想には大規模な軍船団と大量のチェッバンを装備する海軍がな しには済まないのである。 しかしすぐ近くに高い木工技術を誇る造船産業の本場、ジュパラがあるではないか。とは いえジュパラはまだイスラム化しておらず、ドゥマッが政治的に服属させることもまだで きていなかった。後にアディパティ ウヌスと公称されたアブドゥル・コディルはドゥマ ッのスルタンと相談の上でジュパラを軍事占領した。スルタンはかれにウヌスの名前を与 えて祝福した。アラブ語のウヌスは海に関りのある言葉だそうだ。 ドゥマッのその領地拡張に反対して軍旗を掲げるマジャパヒッのアディパティはひとりも いなかった。かれら自身が同じことをしたいと欲していたのだろうが、ドゥマッ領の近隣 を併呑することがドゥマッへの敵対行為と見なされる怖れもあった。いや、それ以上に、 そのころのジャワ島はもっと複雑な状況に包まれていたのである。 各地に生まれたイスラム勢力がドゥマッ独立の先例に大きな期待を載せたのだ。ヒンドゥ ブッダ式統治を続けているアディパティたちはいつの間にか背と腹に敵を持つ立場に立た されていることを知った。腹にいる敵を懐柔するためには自分の社会をイスラム化させる のが良策であり、それはドゥマッへの同盟という方向性を帰結としてもたらす。 パティ ウヌスはジュパラの住民にまず、大型の造船施設を建設させた。その施設を使っ て総がかりで大型軍船を建造させる。そして多数の軍船を短期間で作り、ドゥマッを海軍 国にするのである。それと同時にパスルアンから鋳物師を大勢招いてチェッバンを作らせ た。パスルアンを擁するブランバガン王国はジャワ島で最後まで残ったヒンドゥブッダ王 国だ。ヒンドゥブッダを奉じるブランバガンの鋳物師がイスラム化し始めたジュパラで寝 起きしながらチェッバンを作る。イスラムの革新的な生き方を知って良い物を作ろうと考 えた人間と、反対にイスラム軍にはいい加減な物を作って与えてやろうとする人間が鋳物 師の中に混在した可能性は小さくあるまい。[ 続く ]