「ビトゥンの刺身(後)」(2016年08月26日)

一皿2万5千ルピアのツナ刺身は、瞬く間に消えた。「もう一皿注文しようか?」という
自分の声が頭の中で点滅したそうだ。

ワルン「アエルトゥンバガインダ」の主人ママ・レナ60歳は、日本漁船に乗り組んだ夫
が日本人の仲間たちを自宅に招いて食事をふるまったときにはじめて刺身を作ったと回顧
する。ビトゥンの町でだれが最初にインドネシア風の刺身を始めたのかはわからない。ビ
トゥン港に寄港した日本の遠洋漁船乗組員が、同じ船で働くインドネシア人に刺身を教え
た。

ツナという素材そのものはビトゥンの町にあふれかえっている。日本人はみんな自前の醤
油を持ってきて、刺身を食べていた。しかし北スラウェシのひとびとは、豊かなスパイス
の味覚に慣れている。しょっぱさだけでは物足りかなったにちがいない。しょっぱさ、甘
さ、辛さ、爽やかさ・・・もっとたくさんの味わいを求めて、かれらは漬けタレを工夫し
た。刺身にされる魚も、マグロ、カツオ、モロアジなどが使われた。

このビトゥン風刺身に米の飯はつかない。「米飯はこの味覚にあまり会いません。シンコ
ン(キャッサバ)を茹でたものと一緒に食べるほうがおいしいですよ。今ではその組み合
わせが常識になっていて、でも店によっては茹でバナナを出すところもありますけど。」
茹でシンコンのほんわかとした甘みによってトウガラシの刺激が緩和され、次の刺身の一
切れを待ち受ける態勢を口の中に作り上げていくようだ。この絶妙のコンビネーションで、
ビトゥンの刺身はお代わりが続けられるにちがいない。

話変わって、刺身という料理が普及する以前に、ビトゥンにも海洋魚を生で食べる料理が
あった。イカンゴフ(ikan Gohu)と呼ばれる。同じものは北マルク地方にもあり、さらに
はフィリピンのミンダナオ島やハワイにもあるという話で、だから、生の海洋魚もタコも
世界中で日本人しか食べない、というようには思わないほうがよいだろう。インドネシア
でタコは海岸部に住むひとびとが昔から食べていた。

イカンゴフは北マルクでゴフイカンと語順を変えて呼ばれている。インドネシア人は必ず
その料理にトウガラシを加えるが、フィリピンやハワイはトウガラシを使わないようだ。
レナさんによれば、イカンゴフは生の海洋魚の肉で作ったマリネであり、北スラウェシで
この料理は大勢の人が好んでいるそうだ。マグロやカツオの肉を一口大のサイズに切り、
ショウガ・赤トウガラシ・バジルの葉をすり鉢ですり合わせて魚肉と一緒にもみ、ライム
を搾って上から振りかける。食べる前にしばらく置いておき、スパイスソースをじっくり
と魚肉に浸み込ませるほうが、美味しい。
ビトゥン風刺身よりも酸味が勝っていて、爽やかさが強く、ケチャップマニスやケチャッ
プアシンが使われていないために魚肉の旨味がもろに口内に広がる。

北マルクではゴフイカンを地元のサシミと称しているが、サシミという言葉が今や魚肉の
生食という意味で世界語になったことをそれが示しているようだ。[ 完 ]