「独立宣言前夜(27)」(2016年09月22日)

ラデン・マス・アブドゥル・ラティフ・ヘンドラニンラ中団長は1911年にジャカルタ
のジャティヌガラで生まれた。父親は貴族でジャカルタの郡長をしており、オランダ語を
操る家庭で育ったため、かれはオランダ語が使われる学校を出たが、バンドン時代に民族
運動に傾倒する叔父の家に寄宿しているときにその叔父から薫陶された。ヨンヤファそし
て青年インドネシアなどを遍歴し、ジャカルタへ戻ってからはパリンドラの下部組織プム
ダスルヤウィラワンで活動した。かれは巧みな英語を生かして、ジャカルタ日本領事館で
パートタイムで働いたことがあり、大東亜戦争が始まると植民地警察がかれを逮捕して西
ジャワ州ガルッに流刑した。
軍政監部はその履歴からかれを重要視し、PETAが作られると、即座にジャカルタ大団
の中団長に任命した。


PETAジャカルタ大団のカスマン・シゴディメジョ大団長がバンドンへ向かったのは、
陸軍最高指揮官馬淵少将に招かれたためだ。最高指揮官はジャワマドゥラ地区のPETA
大団長全員を集めて、日本降伏と今後の方針を伝えた。連合国はインドネシアの日本軍に
対し、インドネシアを日本軍占領以前の状態に戻すためにインドネシア人の軍事組織を解
散させて武器兵器をすべて取り上げ、日本軍のものといっしょにして進駐して来た連合軍
に渡すよう命じ、またそれまでの間、インドネシアの治安を維持する任務を与えた。つま
り、日本軍はインドネシア人の独立運動を阻止しなければならない立場に立たされたこと
になる。

この方針説明会はバンドンの陸軍本部で行われ、それが終わると大団長たちは宿舎の興亜
ホテルに入った。その日の夕方、カスマン大団長は他地域の大団長20人ほどをホテルの
ベランダに集めて、意見を語った。「馬淵少将閣下はあのようにおっしゃっているが、P
ETAの所有兵器目録に書かれてある武器兵器はわれわれが持っておいたほうがよい。必
ず独立闘争で役に立つときがくる。」

そこでは集まった者たちがカスマンの意見に同調し、そのようにしようと合意した。とこ
ろが、その情報が瞬く間に日本人の耳に入った。私的会合を開き不穏な相談を行った容疑
で、カスマン大団長は馬淵少将の前に呼び出された。ところが、問われたのはそれだけで
なかったのだ。

もうひとつの尋問は、カスマン大団長の部下であるシンギ小団長がスカルノとハッタを誘
拐したのはどうしてなのか、というものだった。ジャカルタ大団はいったい何をしている
のか?


カスマン大団長は「最高指揮官殿に申し上げます。」と言って語り始めた。
「大日本はインドネシアの人民に独立を約束してくださいました。ところがその年少の兄
弟に与えた約束を果たす前に連合国に降伏なさいました。降伏なさった以上、独立はイン
ドネシアの人民が背負うしかなくなったのです。今やわたしどもの闘いに年長の兄弟から
の助力は望めなくなってしまいました。しかしインドネシア人民の独立の決意は変わりま
せん。わたしが他の大団長たちと意見を交わしたのは、そのためでした。そしてまた、ジ
ャカルタでスカルノとハッタを保護したのも、そのためです。インドネシア独立のために
は、スカルノとハッタが不可欠なのです。」

馬淵少将はうつむいて沈黙した。そしてカスマン大団長をそのまま放免した。馬淵少将の
目に涙が滲んでいたように見えた、とカスマン大団長はそのときのことを回想している。
[ 続く ]