「文字言語障害民族(後)」(2016年10月18日)

インドネシアはフェイスブック利用者数で世界第4位(6.030万人)、ツイッターで
世界第3位(5,000万人)であり、毎日410万件以上のツイートがインドネシアか
ら出ている。デジタルテクノロジーの最前衛であるインターネットは情報と知識へのアク
セスに便宜を与えるものであるとはいえ、シェリー・タークル(2011年)によれば、
そのテクノロジーは同時に論理思考能力を浅薄なものにしている。

ソーシャルメディア研究者であるかの女は、いつも他人と接触している環境の中でひとは
常にコメントを述べることに衝動を抱き、真剣に思考する時間が持てないでいる、と言う。
あげくの果てに、このデジタルテクノロジーの嵐によって、ニコラス G カーが怖れた
ような、浅薄思考世代が誕生するのである。

論理思考の習慣が失われ、ますます複雑化する世界の情報洪水を統御し見分ける力がわれ
われから去って行く。イメージが現実を押しのけ、宣伝やプロパガンダがニュースと溶け
あい、さらにゴシップや欺瞞が事実と肩を並べるのだ。

結局のところ、われわれはあきめくらになり、事実と意見を区別できなくなる。プロパガ
ンディストの騙し、ミーム、侮蔑さえもが情報空間にはびこり、文字言語障害社会はそれ
を真実として鵜呑みにしてしまう。

文字言語障害が世迷いを引き起こすのは、デジタル世界の中ばかりではない。インドネシ
ア民族の自己の定義付けをも失敗させてしまうだろう。読むことの貧困は明らかに、書く
ことの生産性の低さに関わっている。読まれないのであれば、誰が書こうと思うだろうか?
だから、学術出版が貧困なだけでなく、インドネシアは質の高い書籍までもが貧困なので
ある。歴史・自然・文化などインドネシアに関する書籍は、外国人もしくは外国に住むイ
ンドネシア人が書いたもののほうが多い。われわれは、他民族によって定義付けられてい
る民族なのだ。


最近起こった大事件のいくつかも、文書にされていない。2004年にアチェで起こった
津波大災害についてでさえ、質の高い書籍はほとんど生まれなかった。繰り返された一連
の天災についても同様で、それらの事件からわれわれが学ぶべきことがらがほとんど文書
にされていない。そればかりでなく、1998年のレフォルマシ運動に至るまでのオルバ
支配下の32年間も、正しくドキュメント化されていない。書籍の印刷部数の小ささと社
会の読書意欲の小ささは悪循環に陥っている。オルバ期の人物やそのビヘイビアが現代政
治体制の中に容易に潜入していることは不思議でも何でもないのである。

過去に起こったできごとがドキュメント化されず、そして思い出されもしないなら、われ
われは体験から何も学ぶことができない。われわれの学習源泉となるべきものはいったい
何なのだろうか?[ 完 ]