「独立宣言前夜(43)」(2016年10月18日)

インドネシア国内では、独立宣言の噂がすくに広まった。1945年8月17日(金)1
2時ごろ、スラバヤでは新聞スワララヤッが独立宣言の全文を載せた特別版を発行した。

スマランではカンプンカウマンの大モスクがスピーカーでインドネシア独立のニュースを
住民たちに知らせた。日本人はそれを金曜日の大礼拝の案内だと思ってまったく気付かな
かったそうだ。住民たちにとっては、アザーンでなく民族独立の知らせが聞こえて来たの
だから、うれしい驚きだったにちがいない。

ヨグヤカルタでは、地元ラジオ局が沈黙していた。日本人の放送検閲官が早くからラジオ
発信機の部品を外して放送できないようにしていたのだ。

ソロのラジオ局では18日朝に局長が日本の降伏のニュースを入手した。ところが翌日に
なって、ジャカルタの放送管理局から、すべての放送を停止するよう指示が来た。

このラジオ放送停止の指示はインドネシア全土に出されたもので、その指示の根源は連合
軍東南アジア司令部から出たものだった。日本進攻前の状態に復帰させるのが連合国の方
針だったから、インドネシアを占領している日本軍はともかくインドネシア人に新たなこ
とを起こさせずに現状凍結せよということを徹底させるのが目的だったのは言うまでもな
い。
この構図について見るなら、終戦後インドネシアを日本軍から解放して旧宗主国のオラン
ダに渡すためにやってくる連合軍との対決を想定して、スカルノとハッタは日本軍との衝
突を極力避ける方針を採り、反対にスタン・シャフリルや過激派青年たちは日本軍との衝
突も辞さずに日本の傀儡でないインドネシア国家を作って連合国に承認してもらおうと考
えていたように見える。もちろんそこまでの単純化には無理があるとしても、過激派青年
たちを抑え続けたスカルノとハッタの物事の深奥を見透す目を思うとき、このふたりの建
国の父の偉大さはわれわれを感動させずにはおかないだろう。

ブキッティンギでも、郵便局職員がジャカルタからの電報を読み、密かにそのニュースを
住民に知らせてまわった。更に、真夜中には有志らと一緒に街中の要所要所にビラを貼っ
ている。ニュースは口伝で街から離れた村々にまで広がって行った。


1945年8月17日午後、ジャカルタのあちこちで様々な出来事が発生したが、大規模
な騒擾はなく、平穏な一日が暮れた。翌18日も、独立インドネシア共和国大統領に推戴
されたスカルノや国政を担う要職者たちは、憲法の発布準備などに忙しい。
フランス革命のような華々しい民族独立の戦闘を夢見て来た過激派青年層にとって、その
ありさまはアンチクライマックスもいいところだった。

オランダ植民地政庁のシンボルであるコニングスプレインの東インド総督宮殿はいま日本
軍政監の公邸として使われているが、既にインドネシア共和国が発足した以上、共和国元
首があそこに入らなければならない。そうすることによって、インドネシアは名実ともに
独立国家としての体面を保つことができる。しかしながらスカルノからは、総督宮殿を奪
取せよという指令がいつまでたっても出てこない。

スディロはムルワディとラティフPETA中団長と三人で、われわれはこれからどうする
べきかと相談し、革命行動を起こすことで合意した。だがスディロはスカルノから「流血
なし」の国家建設を行うと釘を刺されている。スカルノに提案しても禁じられるに決まっ
ている。まずはブンハッタに相談してみよう。[ 続く ]


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