「スラバヤの戦闘(17)」(2016年12月02日)

副長官ともうひとりの側近はホテルの外へ逃れる。副長官が群衆に事態を説明すると、青
年たちがホテルの壁伝いに建物最上階まで上がってポールに翻っている赤白青のオランダ
国旗を下ろし、一番下の青色の布を引き裂いて赤白だけを残してから、それを再び掲揚ポ
ールの最上部まで引き上げたのである。

それが1945年9月19日に起こったヤマトホテル国旗事件だ。オランダ国旗を引き裂
いてでも独立共和国を維持するというスラバヤ市民の意志を共和国の内外に明瞭に示した
その事件は、共和国支持派国民を一体化させる「Merdeka atau mati!」の呼号へと結晶し
ていった。


その日を境にして、スラバヤに不穏な空気が立ち込めはじめる。ジャカルタと同じような
事態に突入するまでに、それほどの時間はかからなかった。AFNEI軍が9月22日に
ジャカルタに上陸してから10月のはじめにはっきりした内戦の形へと移行した事実をス
ラバヤ市民が知らないはずがないのだから。

しかしスラバヤの共和国側にはジャカルタと異なる強力な戦備が用意されていた。ペタス
ラバヤ大団を中心とするスラバヤの民衆は生命を賭して日本軍の武器を奪うようなことを
する必要などなかったのだ。スラバヤ駐留第二南遣艦隊司令長官柴田中将は「インドネシ
ア人が自らの国を興していくのがあるべき姿だ」という歴史観に沿って、海軍兵器庫の中
身をスラバヤのひとびとに開放したのである。中将は10月3日、スラバヤ港を確保する
ために来航したオランダ海軍に降伏したが、それ以前にスラバヤの共和国側には戦車や各
種大砲、機関銃などの兵器が大量の歩兵銃やピストルとともに引き渡されていた。第二次
大戦終結後に経験した最大の戦いだったとイギリス軍に言わしめたほどの大規模な戦闘が、
1945年10月末から11月後半まで、スラバヤで繰り広げられたのである。


ヤマトホテル国旗事件がストモに生まれ故郷に戻る気持ちを煽ったことは想像に難くない。
かれはスラバヤ最大の青年民間組織「インドネシア人民青年隊」に所属していたが、この
組織の姿勢が軟弱であるという理由で退団し、新たに「インドネシア人民叛乱隊」を作っ
た。ストモの反抗姿勢を敵視した人民青年隊が、ストモは青年層、ひいてはインドネシア
民衆の分裂を煽っているとしてかれの生命を始末しようと画策した話が残されている。

ストモは10月12日にジャカルタを去ってスラバヤへ戻り、そして自宅にラジオスタジ
オを設けると、10月16日から放送を開始した。かれはその放送を「叛乱ラジオ局」と
名付けた。初期の放送にあたっては、国営ラジオ局RRIスラバヤ支局の発信機器を借用
している。RRIはその際に当然ながら、「叛乱ラジオ局」の許認可を尋ねた。ストモは
アミール・シャリフディン情報大臣に許可を得ていると語ったが、後にアミールは「スト
モにそんな許可を与えてはいない」と否定したそうだ。[ 続く ]