「スラバヤ・スー(40)」(2017年02月17日)

シンガポールに直接入ろうとするなら、シンガポール港に上陸するしかない。警備の厳重
なこの島のどこかの岸辺に闇夜に紛れて上陸しようなどと言うのは、捕まりに行くのと五
十歩百歩だろう。

シンガポール港を通過するとしても、そこで入国チェックが行われるのは言うまでもない。
まだ国際社会に承認されていないインドネシア共和国のパスポートしか持たないタントリ
を通してくれる見込みはないし、イギリス軍がかの女の身柄をNICAに引き渡す可能性
すらある。

アンボン人船長と乗組員数人はオランダ植民地のパスポート、ニセ船長はイギリスのパス
ポートを持っているが、もっていない乗組員も何人かいる。おまけにニセ船長はシンガポ
ールのイギリス統治行政にとってお尋ね者だったようで、入港すればとんでもないことに
なる。そんなことは百も承知のアンボン人船長は、船を海岸からおよそ3海里離れた沖に
停めたまま、じっと何かが起こるのを待っている。


何時間か経過してから、モーターボートが一隻やってきて、接舷した。インドネシア人ふ
たりと華人ひとりが船に上がり、操舵室で打ち合わせを行ったあと、アンボン人船長はタ
ントリを上陸させる準備をしてくる、と言い残してそのモーターボートで三人といっしょ
に去った。

アンボン人船長は夕方6時ごろ、華人青年ひとりを伴って戻って来た。そのハンサムな青
年はシンガポールでもっとも富裕な華商一家の甥だそうだ。かれは民間商船のオフィサー
の制服を着こなしているが、もちろんそんな職業ではない。

アンボン人船長はタントリが港の入国管理や税関をすり抜けてシンガポールに入る作戦を
かの女に語った。タントリは娼婦に扮して酔っぱらった商船オフィサーに抱かれながら、
大勢の担当官が見ている中を何の手続きもなしに素通りしていく、というのだ。港に停泊
中の商船のひとつに連れ込まれた娼婦が一夜を過ごし、ふたりとも酔っぱらった状態で陸
上に戻って来る、というのがそのシナリオだ。

タントリの髪や肌は人目を引くので、ショールで頭と顔を覆い、マントを着て手足を隠す。
そんな恰好で華人青年に抱かれながら、港を通り過ぎる。タントリにはまったく気に入ら
ないシナリオだったが、選択の余地はない。かの女は運を天にまかせた。


手配されてあったサンパンがやってきた。小型のサンパンは華人青年とタントリ、そして
漕ぎ手が乗ればもう一杯だ。

上陸すると華人青年はふらふら歩きになり大声で歌い出した。そしてしばらく進んでから、
タントリに荒っぽくキスしようとした。そんな打ち合わせなど何もなかったからタントリ
は本気で怒り、青年を蹴飛ばした。青年は大声で喚き、タントリをもっと強く抱きしめて
またキスしにきたから、タントリは身もだえしてその手から逃れようとし、手をふりほど
いてゲートに走った。

港の構内で業務に就いていた入国管理や税関の担当官たちは、その光景を眺めて笑ってい
た。ふたりを止めて調べようとする者はひとりもいなかった。タントリはこうしてシンガ
ポールの市内に入ることができた。[ 続く ]