「スラバヤ・スー(53)」(2017年03月08日)

続いて船はメルボルンに寄港し、そこでもパースの二の舞が演じられた。そしてタントリ
の目的地であるシドニーに到着。

タントリは興味本位の新聞報道にうんざりしていたため、報道陣を避けることに努めた。
シドニーでも報道陣の襲撃を受けたが、タントリは客船オフィサーに救われて、オフィサ
ーの部屋に隠れていた。

上陸したタントリはパスポートなしの入国という世にも稀な手続きを経て、シドニーの地
を踏んだ。しかしオーストラリアでの滞在が素晴らしいものだったかというと、決してそ
うでもない。


タントリが宿泊しているホテル名が新聞に書かれたため、報道陣だけでなく一般市民もた
くさん、スラバヤ・スーを見物にやってきたし、サインを求められた。その程度は良しと
しても、深夜電話がかかってくるようになる。ぐっすり眠っているときの起こされ、悪意
のある言葉を聞かされるのではたまらない。ジャワ島から追われてオーストラリアに逃れ
たオランダ人が頻繁に電話してきて、悪口雑言を並びたてた。

シドニーで知り合ったスコットランド女性がキングスクロスの小さいアパートに移るよう
世話してくれたので、しばらくは煩わしさから解放されたものの、ある新聞のコラムニス
トが姿を隠したスラバヤ・スーの行方をついに突き止めてすべてを新聞に書いたから、タ
ントリは再び煩わしさにまとわりつかれてしまった。

また深夜に電話のベルが鳴る。そして悪意に満ちた怒鳴り声を聞かされる。「黒ん坊が好
きなんだろう?」「インドネシアの手先」「お前の身に良くないことが起こる前に、さっ
さとこの町を出て行きな。」

タントリはそれをシドニーに住むオランダ人の仕業だと思っていた。我慢の限界に達した
ので、ある日タントリはシドニー警察を訪れて、協力を求めた。警察は電話を盗聴して発
信番号を割り出した。そして明らかになったのは、電話のほとんどがその新聞のコラムニ
ストの事務所からかかってきていたことだ。タントリはそのアパートユニットの電話番号
を変えてもらった。しばらくは静かになったが、また同じことが繰り返されるようになっ
た。異常な執念深さだ。

ほとんどの新聞がスラバヤ・スーの姿を侮蔑嘲笑的に描いている。中には戦前にバリ島で
売春宿を開いていたというガセネタまで書いた新聞があった。タントリはその新聞社を名
誉棄損で告訴した。


しかし、そんな報道論調が一役買ったのだろうか、タントリを招いて話を聴こうという誘
いも頻繁に届けられた。あまりにも多かったために、断らざるを得ないものも少なくなか
った。労働組合が催した講演会にはほとんど出た。独立のためにインドネシア人がどれだ
け苦労しているのかを淡々と物語り、オランダの海上封鎖が日々の暮らしをどれだけ悲惨
なものにしているのかを訴えた。その海上封鎖のせいでインドネシアの豊かな物産をオー
ストラリア人はまったく手に入れることができないではないか、とも語った。

シドニーの実業界と宗教界が発起人になって「インドネシア医療支援アピール」という財
団法人が作られ、インドネシア独立支援の寄付金がそこに集められた。[ 続く ]