「宗教にかける橋」(2017年03月10日)

ライター: バリ在住芸術研究家、ジャン・クトー
ソース: 2017年2月12日付けコンパス紙 "Jembatan Agama"

いかなる社会的差異であれ、互いに正反対なふたつの方法を用いることが可能だ。つまり、
違いを肯定することもできれば、否定することもできるのである。グループAの人間は集
団Bの者に対して言う。「おまえはわれわれと違っている。髪の毛の色が違う。信仰する
神も違う。人種も違う。だからお前とは関わり合いを持たない。・・・」

集団Bの者は言う。「髪の毛の色が違っていたとしても、われわれはお互いに髪の毛があ
るじゃないか。信仰する神が違っていても、われわれは同じように生きることの意義と目
的を探求しているじゃないか。人種が違っていても、われわれはどちらも共同生活して糧
を得るための手段を整えていく場を持っているじゃないか。」

現代科学者は上の両者について、グループAの人間は脳内のアミグダラに統御されたナチ
ュラルな反応であり、一方集団Bの者は文明化によって発現した文化行動である、とそれ
を説明する。

もしそうであるなら、宗教の差異をますます一生懸命言い立て、確定事項を見出そうとし
て聖なる書物をひっくり返すのに没頭している今のインドネシア人は、昔のインドネシア
人より野蛮になっていると言えそうだ。真理を自己の信念の外側で見つけ出すことなど、
できはしないというのに。


昔のひとびとはもっと賢明だった。わたしが最近訪問したバリの田舎の村は特にそうだ。
バリ島北部海岸にあるパチュン村がそれだ。海岸部ということは、東と西を結ぶ通商路に
当たっていたにちがいない。西はメッカになぞらえられたジャワ島のドゥマッっから半島
部のマラッカ、そして東に向かう船乗りたちは北ロンボッのバヤンからブトンそしてテル
ナーテやティドーレへと、16世紀のラデン・パタやイスラム宣教者たちの後を追った。
ドゥマッの宣教者たちはパチュンに立ち寄った。地元に伝えられている話はこうだ。ある
とき、宣教者のひとりがバリの知己に頼まれた。悪獣のもたらす病魔にさらされて平穏な
暮らしが営めなくなっているパチュンに来て、村人たちがその苦難から逃れるために手を
貸してほしいと。かれはその依頼に応じたが、条件を出した。豚肉と血を使う料理は供さ
ないでくれ。そして、その宣教者の霊力によって病魔は追い払われ、すべての苦難は村か
ら去った。

宣教者はその仕事を終えると、宣教のために東に向かった。かれは去ったが、パチュンの
村人はかれの功績を忘れなかった。村人はそのドゥマッの宣教者をメッカの王と呼び、バ
リの知己が持つ寺院の脇に廟を建ててかれを祀った。バリの知己はマニッ王と称され、そ
のふたりはバリ暦で毎年寺院の誕生日を祝うピオダランの祭礼に、パチュン村の祖として
一緒に崇められている。ピオダランの儀式の中で催されるガンブの舞には、ドゥマッの商
人宣教者の役を演じる人々が長衣をまとって登場する。昔のイスラムの旅人の物語が伝説
の舞と化しているのである。

旅の宣教者たちは片手にイスラム布教を載せ、もうひとつの手には医薬品を載せていたこ
とを、その話は想像させてくれる。かれらは医師のしごとを宣教と混ぜ合わせて行ってい
たにちがいない。そんな立場でかれらは、ハラルな食事という宗教の違いを尊重するよう
求める一方、兄弟愛や人間愛の濃い行いに努めたことから、ヒンドゥ文化の地元社会もか
れを祀ることに抵抗がなかったのではあるまいか。


要するに、当時はイスラム宣教者とヒンドゥの村人という差異に重点を置くのでなく、共
通要素を重視したのだ。差異も差別も存在しているが、それは宗教祭祀の中にだけある。
社会生活・文化生活・政治生活の中にあるのではない。

そのような物語から、ラフマタンリルアラミンと呼ばれるものを実践するイスラムヌサン
タラの核あるいは本質が何であるのかが見えてくる。宗教分野での違いが何であろうと、
宗教というのは社会・文化・政治生活を分かち合うための橋なのであり、バリケードでは
ないのだ。

今、世界は変わった。往時のパチュン村民は違いのある宣教者の世界を、医薬品と進歩の
ゆえにポジティブに捉えた。反対にいまグローバル世界は、差異のあるよそ者を脅威とし
て捉えている。だがそれを誤った目で捉えてはいけない。トランプやアルバグダーディが
何を叫ぼうが、そんなことのためにわれわれが宗教を、間違った戦いをしている戦闘員に
満ちた要塞に変身させるようになってはならないのである。願わくば。