「アイデンティティ社会(3)」(2017年03月23日)

さて、弱い自我を持つことを推奨されている人間にとって、自分の帰属する集団アイデン
ティティはその自我を補強するものとなり、こうして自分がそのエンティティと一体化す
るということが起こる。

インドネシア人はアイデンティティシンボルと自己の一体化がきわめて強く結びついてい
る民族であり、自分が何者であるのかということがらが同時に、他人あるいは世間から自
分が何者であると見られているのかということがらと手に手を取って人間を行動に駆る要
素をかれらに与えている。

都知事選挙にからめてイスラム教冒涜問題が起こり、数万人のイスラム教徒がジャカルタ
の外から動員されて非ムスリムの都知事就任に反対の合唱をとなえたのも、現職都知事の
続投をやめさせようとする対立候補側の策謀にそんな国民性が巧みに操られた結果だった
ようだ。投票権を持たず、ましてや非ムスリム都知事の政策に日々直接関わっているわけ
でない民衆がそこまでして都知事選をどうこうしようと本気で考えるのかどうか?更には
地元住民の人気が高まっている非ムスリム都知事に対して、アイデンティティシンボルと
いう観念論だけで敵視する姿勢を心底から抱けるものなのかどうか?

動員をかけられた以上、参加を拒否すれば自分のアイデンティティになっているエンティ
ティから排除される恐れがある。排除されたら自分のアイデンティティは失われてしまう
だろう。強い自我を持つ人間には苦でもないことが、自我を弱めることに慣らされて来た
者には恐怖となる。

依存型文化の人間がアイデンティティを失うのは、自分の存立基盤を無くすことに近い。
アイデンティティが無くなることは自分が空気のような存在になってしまうことであり、
同時に自分を周囲から支えてくれる同胞を失ってしまうことでもある。家族主義社会で孤
児になるというのがどういうことを意味しているのかを思い出す必要があるだろう。自分
を世の中で押し上げあるいは引き上げてくれる人間を持たない者は、この種の社会では辺
縁部に追いやられてメインストリームに入っていくことがきわめて難しい状態に陥ってし
まうにちがいない。実力主義文化というのは家族主義社会が作り出してきたものではない
のだ。家族主義文化は縁故主義を育んできたのではなかったろうか?

だからこそかれらは自分が自己のアイデンティティとしているものが繁栄し、決して滅び
ないよう、全力を傾けて闘うのである。


ビンネカトゥンガルイカを標榜するインドネシアには545の種族が土着しており、その
うちの400は人口的にマイノリティグループになっている。日常生活言語になっている
のは共通語のインドネシア語を含めて20あり、宗教はイスラム、クリスチャン、カソリ
ック、ヒンドゥ、ブッダ、儒教が国家の承認する6大宗教だが、他の土着信仰や派生宗教
も信教の自由を保証する憲法に従って国がそれをどうこうするということはない。もちろ
ん行政が勢力の強い宗教の意向になびくことは頻繁に起こっているから、そのような現象
を国が自分の意志で行っていると見るのは正しくなく、行政の中に憲法違反行為があると
いう見方がなされるべきだろう。[ 続く ]