「太陰暦と太陽暦は互角か?(6)」(2017年04月12日)

新しいムーンが目視されるときが新マンスの開始という決め方はたいへんシンプルなルー
ルだが、天文学上では地球中心から見た太陽中心と月中心の黄道座標の経度(黄経)が同
じになった瞬間という決め方が可能であり、これは新ムーン目視よりも2〜3日前に起こ
るから、その方式を基準に取れば、新マンスの開始はまた異なってくる。

中国暦も陰暦という別名で呼ばれている。インドネシアでは中国暦が陰暦(imlek)と呼ば
れているが、それは陰(im1)暦(lik8)という福建読みに由来している。ただしインドネシ
ア社会に深く関わっているのは中国正月であり、陰暦正月を略した形としての陰暦という
言葉の用法が一般的であるのは言うまでもない。

中国暦では新マンスを黄経の一致した日と定めているものの、一日の開始は夕方ではなく、
もっと後の時間、つまり深夜24時になっている。日本の昔の暦、いわゆる和暦も中国に
倣って同じ基準が用いられていた。つまり江戸時代の日本でも、公式の日付は深夜24時
に変るということが行われていたのである。しかし太陽の動きを日常生活の基準に採って
いた一般庶民にとっては、日の出が一日の始まりという感覚の方が圧倒的に強かったよう
で、その思い違いを正すために本居宣長は「もし自分が亡くなった時刻が正子以降であっ
たら、日付が変わるから命日を間違えることがないようにせよ」という注意書をわざわざ
書き遺していたという話がある。

正子というのはいわゆる子の刻で、今で言う深夜24時=0時。当時は24時間を十二支
で分割し、一刻は2時間とした。真昼の12時は午の刻に当たるため、正午と今でも呼ば
れている。

そうそう、こちらの風習も、2時間という幅に対してたとえば子の刻という名称がつけら
れていたわけで、子の初刻が23時、子の正刻が24時、子の終刻が1時という区分にな
っていた。だから24時というのは正子なのである。そして2時間ごとに正丑、正寅・・
・という呼び方が続いたということだ。


中国人も日本人も、月という時間の単位は月の満ち欠けを基準に採ったというのに、一日
の開始時間をいったいどうして、太陽のない夜中の、しかも時計なしでは容易に測ること
のできない深夜0時と定めたのか?

この部分はやはり、太陽の動きのほうを重視したためだろうと思われる。太陽が頭の上に
来るときを一日の中心としたのは、かなりユニバーサルなことだったのではあるまいか?
そして、プトレマイオスがその時点を日付が替わる「とき」とした。いわゆる天文時だ。
天体観測時、つまり夜間に連続する時間を持つことが、観測記録を残すのに便利だという
ことがその理由だったようだが、太陽が出ている間を一日として生活している一般庶民に
とっては、正午が一日の中心となるほうが便利だったのは言うまでもない。正午を一日の
中心に置くなら、その対極にある正子、つまり正午から12時間前で、且つ12時間後で
ある深夜の24時が一日の開始時刻になるのは算数問題と同じである。

だから、太陽が出ていなくても時間を測定できる時計なるものがあるなら、深夜24時が
一日の開始時刻と定められ、ほとんどすべての一般庶民が寝静まっている真夜中に日付が
変わるという仕組みが作られたにちがいない。

あとは時計と呼ばれる時間を測定するツールがどのような歴史を持っていたのかという問
題になる。それは読者のみなさんにお調べいただくことにしよう。[ 続く ]