「カリフ思想を拒む(後)」(2017年06月05日) ムスリム層の間でさまざまな統治システムが実践されている事実が、イスラムにおけるカ リフ制に関するスタンダードな教義の不在を明白に証明している。フィキの用語に従えば、 イジュマスクティ(言外の共通合意)がウラマ層の間に存在している。統治行政システム は、シャルイの意図に反しないかぎり、それぞれが独自に作ることができるものなのであ る。 カリフ制が預言者の没後に続出したシステムを指しているのだとしても、それすら標準的 なシステムが用いられたわけではない。ラシダ期の四人のカリフの選出方法にも標準的な ものは存在していない。アブ・バカルは選挙で選ばれ、ウマルはアブ・バカルが指名した。 ウツマンはウマルが指名した6人の合議で選出されている。アリもそうで、その後の分裂 でウマイヤ朝カリフ制を誕生させた。ウマイヤ朝のあと、アッバス朝カリフ制そしてトル コのオットマン朝カリフ制と、実にさまざまなカリフ制が出現しており、その内容もさま ざまに異なるものだったのである。 スタンダードなカリフ制というのは、いったいそのどれを指しているのか?そんなものは ないだろう?あるのは、時代から時代、場所から場所でそれぞれが転々と変わっているイ ジュティハッ(ijtihad)の産物だけだ。諸国家機関に至るまで標準化されたパンチャシラ 国家システムとそれはまったくの別物なのである。預言者がマディナ国家を興したときの ような複合的インドネシア社会の実態を踏まえて興されたイジュティハッの産物が、この パンチャシラ国家なのである。 < 危険 > カリフ制支持者たちは頻繁に、パンチャシラ国家システムは福祉と公正を打ち立てるのに 失敗した、と語る。問題がそれであるのなら、長いカリフ制の歴史と宗教史を見直すがよ い。カリフ時代にも同じ失敗は起こっており、それどころか自ら統治する民衆に対する残 酷で得手勝手なふるまいすら行われている。 すべてのカリフ制は素晴らしい統治者を生んだこともあり、そうでないときには腐敗した 独善的な政体をも生み出した。カリフ制の中に高度な統治モラルと倫理の本質があると言 うのなら、パンチャシラ原理の中にも高貴なモラルと倫理の価値が納められている。問題 はその実践にあるのではなかったろうか?もっとも重要なのは、われわれがそれをどう実 践するのかということにあるのだ。 2007年8月12日にジャカルタで開催されたヒズブッタフリル国際会議で、デモクラ シーはハラムであること、ヒズブッタフリルは東南アジアからオーストラリアに至る広域 カリフ国家の建設に邁進することなどが表明された。わたしはこの運動がインドネシアに とってきわめて危険なものであることを指摘したい。その思想が進められて行くなら、イ ンドネシア民族に分裂の脅威が降りかかるばかりか、イスラム民衆の内部にも分裂の危険 が襲い掛かることになる。 どうしてか?カリフ思想が受入れられたら、イスラム民衆自身の間で明白に線引きのでき ない諸形態を口々に唱える百家争鳴状態になるだろうからだ。アルクルアンとスンナには カリフ制のスタンダードが示されていないのだから。それぞれが自分の理想とする形態を 正しいと主張するにちがいない。きわめて大きなカオスがそこに潜在しているのである。 それゆえに、システムが憲法に明白に定められているパンチャシラ国家の中で多様性の統 一をはかることが、インドネシア民族にとって絶対不可欠なことがらなのだ。それをイン ドネシア民族の全員に高貴な共通合意として確信させなければならない。インドネシアの ウラマとイスラム知識人は昔から、そう結論付けてきているのである。[ 完 ]