「消えたインドネシアラヤ録音原盤(後)」(2017年06月23日) 軍政監部は最初、インドネシアラヤをプロモートしたものの、そのうちに手のひらを反す ようにそれを禁止した。ヨー・キムチャンの怖れは杞憂でなかったということだ。敗戦の 色濃くなったころ、軍政監部は再び手のひらを反すように、インドネシアラヤを奨励する ようになった。オランダ時代の民族運動弾圧を懸念してスプラッマンが作った歌詞がより 意気高いものに改められたのも、そのころだった。 インドネシアが独立宣言をしたあと、インドネシアラヤは公式に国歌としての位置に据え られた。スプラッマンのオリジナル演奏が収められた原盤は、ヨー一家が大切に保存して いた。 1947年にヨー・キムチャンがオランダを訪れたとき、インドネシアレストランで食事 した。インドネシアから来た客と知って、レストランオーナーがインドネシアの曲のレコ ードをかけた。その音楽を耳にしてヨーはびっくりした。何と、オランダ植民地政庁がタ ンジュンプリオッ港で没収したかれのクロンチョンレコードだったのだ。オルケスポプレ ールのリーダーであるヨーの声が中に入っている。ヨーは自分のパスポートを示して、そ のレコードは自分の録音であることをオーナーに説明し、15フルデンを渡してレコード を譲ってもらった。 ヨーはそのレコードを商業用に複製して売り出そうと考えたが、コピーライトがかれに帰 属しているにも関わらず、国はそれを許可しなかった。後に情報大臣になるマラディがR RIの長官だったころだ。更に1957年になって、ヨーはスプラッマンのバイオリンと 唄の入った原盤を商業用途に複製しようとした。すると作曲家クスビニが情報大臣の添え 状を持ってヨーを訪れ、その原盤を政府の用途のために借り受けた。 その後いつまでたっても原盤は政府から返却されず、政府関係者にそのことを尋ねても、 知っている者がだれもいないという状況になってしまった。 カルティカは2014年に喉頭がんで死去したが、死亡する前にコンパス紙のインタビュ ーを受けて、歴史的にきわめて貴重なスプラッマンの自作自演レコード原盤を見つけてほ しい、と強く訴えた。たいへん価値のある史的遺物がおろそかにされているのは、インド ネシア民族と作曲者スプラッマンにとってきわめて残念なことであるのは確かだ。しかし、 その原盤はいまだに見つかっていない。[ 完 ]