「ジャカルタへのアーバナイゼーション(上)」(2017年08月10日)

ヌサンタラの各地からバタヴィアへの住民移住は1800年代から始まっていた。たいて
いのひとは働いて金を稼ぎ、生活の質的向上を図るのを上京の目的にしていた。物語「サ
イジャとアディンダ」の主役であるサイジャも、アディンダと結婚するために都のバタヴ
ィアへ上って三年間働き、金や宝飾品を携えて故郷へ戻って来たではないか。サイジャに
は故郷へ錦を飾る明白な理由があったが、上京者のマジョリティはバタヴィアに、そして
後のジャカルタにとどまって首都の住民になった。ジャカルタと村落部や地方都市の間に
は歴然たる格差があったからだ。「サイジャとアディンダ」の物語には1800年代半ば
の状況が投影されている。

1949年の完璧なる独立承認以降、インドネシア共和国の各地から首都ジャカルタに向
かう住民移住は激しさを増した。中央統計庁データによれば、ジャカルタ首都特別区に流
入してきた移住者人口は次のような数字になっている。
1980年 76.6万人
1985年 68.4万人
1990年 83.3万人
1995年 59.5万人
2000年 70.2万人
2005年 57.5万人
2010年 64.4万人
2015年 49.9万人

一方、ボデタベッのタングランを除くボデベッ(ボゴール・デポッ・ブカシ)を抱える西
ジャワ州のデータは次の通り。
1980年  55.2万人
1985年  56.0万人
1990年 135.1万人
1995年 111.8万人
2000年 109.7万人
2005年  73.1万人
2010年 104.9万人
2015年  75.1万人

全国各州の中で流入移住者人口が100万人を超えた州は西ジャワをおいて他にない。1
980年1985年はジャカルタ首都特別区が全国のナンバーワンだったものが、199
0年にはその首位の座が西ジャワにとって代わられ、それ以来西ジャワが全国ナンバーワ
ンの地位を維持しているのである。首位の座が移動したことは、つまりジャカルタが飽和
状態になって新参移住者が周辺地区へ分散するようになったということのようだ。

全国各地からの移住者で埋められたジャボデタベッ地区は、種族と文化の坩堝と化した。
各地方部の文化と産物が持ち込まれてたいていがヒットし、地方語の特徴的な言葉さえも
が系統的に縁もゆかりもないひとびとに受け入れられて、首都圏での流行語と化した。ジ
ャカルタは世界の大都市と肩を並べることのできるコスモポリタン的資質を確固たる土台
に据えていたのである。[ 続く ]