「バタヴィア港(42)」(2017年10月06日) 当時の慣習では、高位高官・社会的有力者の墓は教会の庭に設けられることになっており、 たいていの教会は裏庭が墓地だったそうだ。またその墓は一家一族の墓であるため、その 本人だけがそこに埋められたわけでもない。 1629年9月22日の葬儀はバタヴィア政庁舎で営まれ、クーンの遺体は政庁舎の庭に 埋葬された。というのも、政庁舎左側に建てられていた教会はマタラム軍のバタヴィア進 攻で焼け落ちていたからだ。 1631年にチリウン川をまっすぐにする改修工事が行われてその名前がカリブサールと 改称されてから、区画の広がったその場所にバタヴィアの中央教会とでも呼ばれるべき位 置を占めるオランダ教会(Hollandse Kerk)が建てられた。しかしオランダから新しいパイ プオルガンがもたらされ、その収納の必要性を機会にさまざまな不都合が取り沙汰された あげく大改装が決議され、1732年にオランダ教会は歴史の幕を閉じた。1736年に デザインが一新された教会が誕生し、改装後のものは新オランダ教会(Nieuwe Hollandse Kerk)あるいは大オランダ教会(Grote Hollandse Kerk)、昔のものは旧オランダ教会(Oude Hollandse Kerk)という名称で区別されるようになる。 ところが1780年に起こった大地震でバタヴィアの街は大きな被害を蒙り、新オランダ 教会もひび割れが入って構造上危険な状態に陥ってしまう。バタヴィアの街は、オランダ の記録によれば1699年、1780年、1883年に大型地震の被害を受けている。1 699年の地震はボゴール山系のサラッ(Salak)山噴火、1883年はスンダ海峡のクラ カタウ(Krakatau)山噴火と言われているが、1780年の震源が何なのかは定説がないよ うだ。 ともあれ、ナポレオンの支配下に落ちたオランダがジャワ島をイギリスに奪われないよう にと繰り出してきたエースである第33代のウイレム・ヘルマン・ダンデルス総督が行っ た対英戦のための軍事インフラ改善の中で、その新オランダ教会も取り壊しの対象にされ てしまったのである。 ダンデルスが行ったインフラ改善の代表的なものは、ジャワ島西端のアニエル(Anyer)か ら東端にほど近いパナルカン(Panarukan)までを結ぶ大郵便道路(De Grote Postweg = Jalan Raya Pos)の建設だろうが、それに次いでバタヴィアの街を外敵の侵略から防いで きたカスティルと街外郭の城壁撤去をあげることができるだろう。英軍の侵攻に対する防 衛線たるべきそれらの城壁を破壊するという発想が分かりにくいかもしれないが、ダンデ ルスが考えたのは城壁や石垣が敵の侵略を防ぐのではないという原理ではなかったろうか。 敵の侵略を防ぐのはあくまでも人間と人間が使う兵器であり、バタヴィアにある時代遅れ の兵器では英軍の新鋭兵器と太刀打ちできるものでなく、バタヴィアはやすやすと英軍に 奪われてしまうにちがいない。英軍が新鋭兵器をカスティルや城壁の中に持ち込めば、フ ランス=オランダ側にとってその奪回はたいへん困難になるだろう。だから英軍に奪われ ないようにするには、それらを無くすにしかず、というのがその発想だったように思われ るのである。 ところで余談かもしれないが、アニエル〜パナルカン1千キロの大郵便道路の東端がジャ ワ島東端のバニュワギでなく、シトゥボンドの町の西側に接する小さな港町であったこと に不審を抱くひとは多いかもしれない。それは当時、ジャワ島とバリ島を結ぶ交通路が今 のようなバリ海峡越えでなく、パナルカンとバリ島のシガラジャ(Singaraja)を結ぶジャ ワ海〜バリ海を経由する航路を幹線にしていたためだ。つまり当時はシガラジャがバリ島 の表玄関になっていたということだ。オランダ教会に話を戻そう。[ 続く ] 「バタヴィア港」の全編は
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