「ジョグジャ王宮陥落」(2017年11月17日)

ライター: コンパス紙記者、イワン・サントサ
ソース: 2017年11月2日付けコンパス紙 "Inggris dan Keraton Yogyakarta"

イギリスのコロニアリズムに対するインドネシア社会の見方は一般的に言って、インドネ
シアを支配した他の諸国に比べてポジティブな傾向にはある。しかしながら、1812年
6月20日未明のイギリスによるヨグヤカルタ王宮攻撃は1811〜1816年のイギリ
スによるヌサンタラ統治の別の顔だ。

「インドネシアがイギリスの植民地になっていればもっと進歩していただろうという仮説
はよく言われているが、イギリス軍のヨグヤカルタ王宮攻撃は別だ。王宮北側のアルナル
ンは血の海と化し、そのあと四日四晩、王宮を掠奪の嵐が吹き荒れた。」歴史家ピーター
・キャリー氏はそう述べている。

ヨグヤカルタ王宮に対する軍事攻撃はトーマス・スタンフォード・ラフルズ副総督が18
11年9月にフランスからジャワ島の支配権を奪ったことに始まる。そしてかれはパレン
バンやヨグヤカルタの王宮をはじめ、ヌサンタラの支配者たちに手紙を送った。

「ムラユ語で書かれたラフルズの手紙の内容を、『イギリスがオランダのように支配権を
持った。』とパレンバンもヨグヤカルタも理解したようだ。パレンバンのスルタンはオラ
ンダ人使節95人を処刑したし、ヨグヤのスルタンもオランダに対して敵対的だったから、
状況はたちまちにして緊張をはらんだ。」ピーター・キャリー氏はそう語る。


1811年12月にラフルズがヨグヤカルタ王宮を訪問してハムンクブウォノ(HB)2
世に面会したとき、あわや戦争になりかかった。スルタンHB2世はラフルズの席として、
ずっと低い位置に椅子を置いた。ラフルズの衛兵たちと王宮の貴族たちは、剣・クリス・
槍を抜き放って互いに詰め寄った。その場での騒動は避けられたが、イギリスとヨグヤの
関係は極度に悪化した。

そのころ、イギリス側は外島での作戦に多忙であり、ラフルズは1812年4月に遠征軍
を派遣してパレンバンの王宮を征服した。1811年12月の事件はヨグヤカルタ王宮が
ジャワからヨーロッパ人支配者を追い払おうとしていることのあらわれではないかと見て、
ラフルズは警戒を強め、最終的に1812年6月、パレンバン遠征軍が帰還したあとスマ
ランからスラカルタに向けての進軍が開始された。最終目標はヨグヤカルタだ。ラフルズ
指揮下のイギリス軍は1812年6月17日にヨグヤカルタに到着し、フレデブルフ要塞
で軍容を整えた。フレデブルフ要塞はヨグヤカルタ王宮の北方、わずか5百メートルほど
の距離にある。

翌6月18日、イギリス側は王宮に使者を送って和平交渉に誘った。スルタンHB2世は
それを拒否して、使者をフレデブルフ要塞に帰らせた。その日のうちに、25人のイギリ
ス軍騎馬隊と王宮の槍部隊との間に接触が起こり、イギリス側に死者5人負傷者13人の
被害が出た。

6月19日、スルタンHB2世はフレデブルフに使者を送り、停戦を勧めてイギリス側に
降伏するよう求めた。王宮は3千人の兵士と大砲10門で守りを固めている。しかしイギ
リス側は隠密裏に王宮への出撃準備を進めていた。

6月20日午前5時前、フレデブルフから王宮への砲撃が開始された。続いて北側アルナ
ルンに向けて軍勢が動いた。だがそれは王宮側の目をくらます囮作戦だった。攻撃軍本隊
は南側から王宮を目指していたのだ。王宮軍の動きを封じると同時に、王宮の火薬庫を粉
砕する作戦が立てられていた。

イギリス軍は王宮軍を撃破し、王宮の要塞防壁をはしごで登って宮殿内へと侵入して行っ
た。イギリス側の砲撃に押されて、王宮側は大砲を撃つ隙もなかった。

戦闘は午前8時ごろ終了し、イギリス兵は王宮の心臓部へ突入して王族たちを捕らえた。
スルタンHB2世はその後マレー半島のプリンスオブウェールズ島(今のペナン島)に島
流しされ、HB3世が即位した。

そのとき、若きディポヌゴロ王子(当時はパゲラン・オントウィルヨ)はジャワの王位継
承に対するヨーロッパ人の干渉を身をもって体験している。ヨグヤカルタ王宮に対するイ
ギリス軍侵攻が1825〜1830年のディポヌゴロ戦争に向かうかれの精神を形成した
諸要素のひとつだったことは疑いがない。

ディポヌゴロの敗北が、ヌサンタラ支配の中心となるジャワに対するヨーロッパ(オラン
ダ)支配確立の出発点となった。最終的に1900年代初期以来、スラカルタとヨグヤカ
ルタの王宮が統治した地域から、インドネシア独立の先駆けをなした思想家活動家が輩出
し、1945年の独立宣言に至るのである。