「風の目?(1)」(2017年12月05日)

インドネシア語に「mata angin」という言葉がある。単純に辞書翻訳すれば「風の目」と
なる。風の目と言われて最初にイメージするのはきっと台風の「目」だろう。暴風の中心
部を指す言葉はインドネシアでも「mata」の語が使われているが、これは気象用語として
の用法になる。

しかし「mata angin」の風の部分は暴風でなくて普通の風だ。風上から風下に吹き通って
行く風に台風の目を結びつけるには無理がある。そもそも「mata」を目という視覚認識器
官にあまりにも強く結びつけているために、見当はずれの理解が発生するのではないだろ
うか。

「mata」には目のほかにもさまざまな語義がある。たとえば目に似たものという使われ方
がある。これはもちろんインドネシア文化における感性に沿ってのものだから、異文化人
から見て「全然目に似ていないよ」という感覚に襲われるひとも出るに違いない。

網の糸の隙間やふるいの粉が通る部分は日本人も目と呼んでいるが、鎖となってつながっ
ている輪のひとつひとつはどうだろうか?木の板に残っている節そのものはどうだろう?
あるいは、足首の内外に出っ張っている「くるぶし」という骨は?

他にも「mata」という語で「中心をなす部分」や「重要な部分」を示す用法がある。たと
えば、mata uang, mata hidup, mata dagangan, mata pencaharian, mata gawai, mata 
susu などと言うのが多分その例に該当するのだろう。

いや、そればかりではない。刃物の刃先や尖ったものの先端部分も「mata」のひとつだが、
それはさておき、たとえば「mata air」という言葉がある。「水の目」と言われてどのよ
うなイメージが脳裏に浮かぶのだろうか?日本語のできるインドネシア人から「泉という
のは水の目なんですよ。」と説明され、確信がないまま何となく水が湧出してくる穴を目
に例えるイメージを抱いて帰って行く日本人が少なくないように思われるのだが、この
「mata」は目でなくて源を意味しているのである。

「mata angin」もそれと同じで、「asal angin datang, sumber angin」がその意味なの
だ。ところがその「風が吹いてくる源」という言葉が方角・方位を表すようになった。

普通、インドネシア語で方位・方角を意味する言葉は「arah mata angin」と言う。
「arah」のない「mata angin」という熟語でその意味を示すこともあるが、実際には
「arah mata angin」の方が、使用頻度ははるかに高いように思われる。

風が吹いてくる方向が方位や方角という概念の基礎になったという事実は、きっとこのム
ラユ文化地域の特性であるモンスーンに関わっていたのではないかという気がわたしには
する。しかしその辺りを考察している資料にまだお目にかかっていないため、それはわた
しの仮説としてとどめておこう。[ 続く ]