「menemukanとmenemui」(2017年12月13日)

ライター: インドネシア語オブザーバー、アルフォンス・タルヤディ
ソース: 2007年5月4日付けコンパス紙 "Menemui Mayat"

この一文は良好で正しいインドネシア語の使用に努めたある外国人に関するわたしのノー
トに導かれたものだ。わたしは1977年にジャカルタのインドネシア科学院−社会経済
研究所が催した南ルウの社会構造に関するセミナーに参加した。スピーカーはシェリー・
エリントンという名の人類学者だった。セミナーを終えたかの女は自分のインドネシア語
がひどいものだったと謝った。当時社会経済研究所理事だったタウフィッ・アブドゥラは、
かの女のインドネシア語は正しいものであり、インドネシア人のたいていの社会学者より
ももっと良好である、と述べた。

エリントン氏はセミナーの中で、接尾辞の-kanと-iの選択に際して何度かつまずいた。興
味惹かれたのは、言い間違いのたびに訂正がなされたことだ。それがとても印象深かった。
その体験の記憶に従って、わたしは皆さんに昨年の新聞記事から取った次のふたつの文章
に注目していただこうと思う。
(1) Dari kamar hotel tersebut polisi menemukan sejumlah obat pereda rasa sakit 
milik almarhum.
(2) Ketua Umum Partai Amanat Nasional, Sutrisno Bachir, menemui mantan Presiden 
Indonesia BJ Habibie di kediamannya.

それぞれの文章の意味を変えないで(1)のmenemukanと(2)のmenemuiを互いに入れ替えるこ
とは可能だろうか?明らかにノーだ。JSバドゥドゥが「これが正しいインドネシア語」
(1995年第120ページ)に述べているように、menemuiの形は会った人間がその後
に置かれる一方、menemukanの形はその後ろに人間でなく物が来る。

ならば、ある新聞から採ったこの文章はどうだろうか?
Polisi Filipina akhirnya menemukan dan menahan mantan senator Gregorio 'Gringo'
 Honasan.

ホナサンは人間だ。どうしてmenemui Honasanでなくてmenemukanが使われるのか?バドゥ
ドゥを引用するなら、その犯罪者は人間でなくて物扱いされているということになる。

犯罪者でもmenemuiの目的語にできる可能性はあるとわたしは思う。
Rohaniman A menemui perampok B di Lembaga Pemasyarakatan C.

その意味は、教誨師Aは強盗犯罪者Bに会うためにどこへ行けばよいのかを知っており、
かれがそこへ行ったのは逮捕するためでなかったということだ。

犯罪者でなくとも、menemukanの形が後ろに人間を伴うことができるように、わたしには
思われる。
Akhirnya mereka menemukan Sipin, yang hilang kemarin, sedang nangkring di cabang 
kamboja di pemakaman Sepruk.

menemukanの形が使われたわけは、それが時間のかかる困難な捜索の結果を表しているか
らだ。そこではmenemukanをmenemuiに置き換えることができない。なぜならシピンを探し
たひとびとはスプルッ墓地にかれがいることをそれまで知らなかったのだから。menemui
の語は会う/会った人間がどこにいるかを事前に知っていることを示している。たとえば、
seorang gadis yang minta sang pacar menemuinya di Kafe O. のように。

行方不明者についてのことがらであれば、死者も同じように、menemuiの形が後ろに物で
なく人を取るという原則から外さなければならない。

ここまで検討したことを振り返るなら、KBBI第三版1170ページに掲載されたPo-
lisi menemui mayat itu di semak dekat kebunという例文に直面して驚かされることに
なる。その例文がKBBI第四版にまた登場するかどうかを、われわれは待っていればい
い。