「単語の成立は文法でなくて社会の問題」(2018年01月15日)

ライター: 文学者、ダミリ・マッムッ
ソース: 2016年12月17日付けコンパス紙 "Metode Pendidikan"

2016年11月5日のこのフォーラムに掲載されたヤンワルディ氏の「ある接辞形成単
語が受け入れられるというのは社会の問題なのであり、文法の問題ではないのである。」
という結論にわたしは賛成する。その「pembelajar」という接辞形成語のケースは、しば
らく前に言語学者たちが話題にしたために世の中をにぎわせた「membawahi-membawahkan」
や「mengatasi-mengataskan」と似通った問題だ。結果は静かに潜行していっただけだ。

それどころか、新しいものに飛びつきたがる印刷メディアがそれにどう対応しようかと戸
惑っていた。その理由はさっきのそれ、われわれの社会では「membawahi」や「mengatasi」
が既に根をおろしていて、「membawahkan」や「mengataskan」に出会うことがないからだ。
接辞形成単語が社会の問題であるというのは、実にその通りなのである。


「petinggi」という語に取り替えられた「pembesar」の語も同様だ。発展経過において
「petinggi」という用語は印刷メディア、つまり新聞でのみ使われ、新聞紙面でのみわれ
われの目に触れている。社会の中では、「pembesar」の語が依然として生き続けている。
「petinggi」という接辞形成は形態論的に構造を説明することができない。

「pembesar」の代替語を意図した「petinggi」という用語に「orang tinggi」や「ter-
tinggi」という意味を当てはめるのは妥当でない。なぜならわれわれの社会が持ってい
る文化では、「tinggi」という語は常にネガティブな色調を伴っているからだ。

たとえば「tinggi hati」という言葉は「sombong」や「angkuh」を意味し、「meninggi」
という言葉もまたしかりなのである。「tinggi gunung seribu janji」や「setinggi-
tinggi terbang bangau」という言葉もある。


わたしもかつて、2015年11月14日付けのこのフォーラムで少し突っ込んでみたこ
とがある。聞くところでは、「pembelajaran」という接辞形成単語は西洋から摂取した教
育メソッドに関わっているのだそうだ。たとえばそのひとつのCBSAメソッドでは、グ
ループディスカッションが用いられる。しかしながら、文化の異なるわれわれにはまだそ
の準備ができていない。

西洋社会は個人主義的である一方、われわれの社会は協調主義的である。西洋人は群れを
成すことを嫌う。あらゆる問題を自力で決着させることにかれらは満足する。反対にわれ
われは「ゴトンロヨン」であり、「食うことよりも集うこと」を優先する社会である。グ
ループディスカッションなどあえて命じられなくとも、われわれの生徒たちは、はるかそ
の前からそれを実践している。ネガティブなカンニングというものまで含めて。われわれ
の教育界におけるカンニング問題は、すべての教育ツールがそこに関わっているため、も
はや救いがたいものになっているのだが・・・

もうひとつ、まだ準備不足のことがらがある。われわれの学校は一般的に、1980年代
にCBSAメソッドを採用して以来今日に至るまでも、妥当なラボスペースを持っている
ところがほとんどない。ラボラトリー施設のまったくない学校はたくさんある。そんな学
校はそのときだけ模様替えするから、騒ぎが起こる。机を動かして積み上げ、椅子をガタ
ゴト並べ替えるから、大騒動だ。生徒は大喜びでやるのだが、時間はどんどんと空費され
る。「pembelajar-pembelajaran」の新語を産み落としたメソッドは何の効果ももたらさ
ず、反対にインドネシア語使用者をうろたえさせるばかりだ。

「pembelajar-pembelajaran」の接辞形成単語が出現したのは2000年ごろのことだ。
それ以前にあった「ajar」を基語として接辞形成された派生語は、「belajar」「menga-
jar」「pelajar」「pengajar」「pelajaran」「pengajaran」「mempelajari」「menga-
jari」「mengajarkan」だった。言語専門家や辞書が「pembelajar」を「guru」「penga-
jar」「yang membuat orang jadi belajar」と定義付けでいるのなら、「pengajar」の語
でそのすべての用が満たされるではないか。

社会的な面においては、「pembelajar」の語はいまだなじみ薄く、ひとびとを戸惑わせて
いる。もしもその語義を「siswa」あるいは「orang yang belajar」としたいのであれば、
既に世の中に定着している「pelajar」という単語で十分ではないだろうか?