「ひとみどろぼう(1)」(2018年04月02日)

人間というものは最初、血縁関係を核とし、親族関係を基盤にして生活コミュニティを築
いた。これはアフリカであろうがヨーロッパであろうがアジアであろうが、違わないはず
だ。親族関係という言葉を三親等辺りまでの意味合いで理解しているひとは、系統関係図
を丁寧に作って眺めて見ればよい。血縁関係は容易かつ大規模に親族関係へと拡大してい
くのだから。

ある村の住民が全員親戚だということは、その観点から見るならきわめて自然なことだっ
たにちがいない。どこのだれそれは父の従兄弟のだれそれと結婚して移り住んできた一家
だというようなところまで一族に含めるなら、全員親戚理論は容易に成立する。

この全員親戚理論はインドネシアできわめて顕著であり、当然ながら一族というのはたい
へん開放的であって、構成員はふつう複数の一族のメンバーになっている。一族というも
のを閉鎖的な視点の中に包み込む文化もあるにはあるが、そんな文化には数限りない悲劇
が生まれたことだろう。


そういう親族関係に属していない赤の他人を、日本人は「ひと」と呼んだ。英語ではst-
ranger、インドネシア語ではorang asingに当たる。要するに、自分が所属している生活
コミュニティに属さない人間、言い換えれば「よそ者」のことなのである。

ちなみに、orang asingが外国人と訳される傾向を否定する気はないが、インドネシアの
地元生活に分け入って見るなら、同一国籍同一種族であってもよそ者はorang asingと表
現されていることを実体験できるにちがいない。その言葉は国籍などという概念にほとん
ど関りのない、文化的心理的用語なのである。それはさておき・・・

そして更に、その生活コミュニティが構成員の自己アイデンティティにまで浸透したとき、
同胞と外部者という差別が起こり、自分と他者、selfとother、diriとliyanというディコ
トミーの根が伸び始めるのである。


日本文化には「ひとを見たら泥棒と思え」ということわざがある。ここで使われている
「ひと」を自分でない他人と理解しては、元来の意味が歪んでしまう。この場合のひとは、
strangerあるいはorang asingという意味合いでの「ひと」なのだ。

村に入って来たよそ者は村に悪さをしにやってきたならず者だから、そやつの一挙手一投
足に警戒せよ、というのがそのことわざの意味合いであり、そんな観念はわれわれをして
一千年以上前の社会状況にタイムスリップさせてくれる。[ 続く ]