「クラマッ(1)」(2018年04月09日) 1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、 サレンバラヤ通りからクラマッラヤ通り(Jl Kramat Raya)と名を変えてスネン市場(Pasar Senen)に向かう。 道路の東側は道路名と同じクラマッ町、西側は最初クナリ町が続くが、クラマッラヤ通り に西側から流れ込むクラマッ4通りでクウィタン(Kwitang)町に変わる。 この通りで歴史スポットを探すなら、まず筆頭にあがるのが青年の誓い博物館(Museum Sumpah Pemuda)だろう。クラマッラヤ通り106番地にあるこの建物は道路の西側にある。 東側は奇数番地、西側に偶数番地が並んでおり、探しやすい。 1928年10月27〜28日、この建物で第二回青年会議が開催され、青年の誓いと呼 ばれる「祖国・民族・言語」をインドネシアという名の単一のものにする決議が宣言され た。元々一体性を持っていなかった広範な東インド諸島の被支配者たちをオランダ植民地 主義が反オランダという一点で団結させる結果をもたらし、分割統治を失敗に導く原点と なったのである。この歴史の教訓は栄枯不滅のものであるにちがいない。 後にインドネシア共和国国歌に制定されたインドネシアラヤ(Indonesia Raya)という歌が 作詞作曲者ワゲ・ルドルフ・スプラッマン(Wage Rudolf Supratman)自らのバイオリン演 奏と合唱団によってコングレス会場に響き渡ったことも、そのときにこの建物は黙して見 降ろしていたのだ。 インドネシアラヤの歴史ストーリーは次の記事をご参照ください。 「国歌インドネシアラヤの歴史」(2017年06月12〜16日) http://indojoho.ciao.jp/2017/0612_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2017/0613_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2017/0614_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2017/0615_1.htm http://indojoho.ciao.jp/2017/0616_1.htm この建物の所有者はシー・コンリオン(Sie Kong Liong)という華人だった。1925年に かれはそこを学生向けのコスにした。インドネシア語のコス(kos)というのはオランダ語 のin de kost(他人を寄宿させる)という慣用句に由来する言葉で、kost そのものは生 計費や賄いという意味だ。つまりインドネシア語のコスは下宿屋あるいは寄宿舎という意 味で使われている。[ 続く ]