「スネン(3)」(2018年04月18日) スネン市場を作ったのは、ウエルテフレーデンにあるシャステレインの土地を買ったユス ティヌス・フィンク(Justinus Vinck)で、市場は1735年8月30日にオープンした。 オランダ人はその市場をフィンクパッサー(Vinckpasser)と呼んだ。 フィンクがその土地を買ったのは1733年だという記事があり、そうであるならかれは シャステレインから直接買ったのでなく、遺産相続人から買ったということになりそうだ。 ともあれ、VOC高官であったフィンクがその市場事業を行ったのは、バタヴィア城市内 からウエルテフレーデンへの政治経済センター移転が進展し始めていた時期であり、新都 市に市場が不可欠であるという背景が存在していたためにバタヴィア市政トップから許可 が下りるのは間違いなかったことに加えて、トップは金銭経済を推進させるために、スネ ン市場での物々交換取引を禁止する意向だったことをかれが明確につかんだ上での取り組 みだったように思われる。 つまり市場での売上に対する課金が明白に扱える状況がかれに確信を持たせたということ だったのではあるまいか。 作られた当初、スネン市場は広い土地に掘立小屋が並んでいるだけのありさまだった。1 815年ごろでも、建物は竹編み壁のものと木造のものが入り混じっており、レンガ作り の建物はまだなかった。記録によれば、1826年7月9日に大火災が発生して市場にあ る建物の大半が灰になったと記されている。それを機に、レンガ作りの建物が増加してい ったにちがいない。 スネン市場は大勢の華人が利用して大繁盛したことから、1766年に市日が増やされた。 そのころ市場の東側には華人の住居が連なり、西のチリウン川からクウィタン町北側を経 てクラマッブンドゥル交差点に至る水路が、そこから更に東にあるブグル(Bungur)町に掘 られたカリバル(Kali Baru)につながっていた。スネン市場はその水路を南縁にしていた のである。その水利工事は第27代のバロン・ファン・イムホフ総督(Gustaaf Willem ba- ron van Imhoff)の時代になされたものだ。今ブグル町のカリバルは国鉄パサルスネン駅 の南踏切あたりで行方不明になっており、西のチリウン川から水を引いていた水路はすべ て埋め立てられている。 しかしフィンクパッサーは設立当初から運営がうまく行かず、フィンクが死去する前の1 749年にスネン市場をヤコブ・モッスル(Jacob Mosse)lに売却し、そのヤコブ・モッス ルが1750年から1761年まで第28代総督に就任したことで市場が大いに発展した という記録になっている。[ 続く ]